里山のいろどり4-牡丹4
里山のいろどり4-牡丹4
里山のいろどり4-牡丹4
 虫明・黒井山牡丹園

 ピンク 1
 双方で融解しあう柔らかい色彩、隣に紅があると力負けするが、内包する凛とした茎姿はボリュームある。

 (画像はクリックしてご覧ください)
里山のいろどり3-牡丹3
里山のいろどり3-牡丹3
里山のいろどり3-牡丹3
 虫明・黒井山牡丹園
 
レッド1
 真紅の色彩に直結するほど、よく合い、映える。
 映画の「緋牡丹お竜」とか「唐獅子牡丹」の主役の背に負う刺青はこの色だ。
 襖に紅やピンクの泥絵で描かれる牡丹は迫力がある。
 そして、生命の存在をアピールし、猛々しく感じるときがあり、心に火をつける炎の力をも与えてくれる。

  ー色ことばー
紅色 :   開放的・単純明快       何ごとにも心から喜べる素直な人
カーミン : 外交的・情熱・激しさ
      もの静かでも積極的な行動派


 ※前回のブログに貴重なコメントをいただきました。ありがとうございます。

(画像はクリックしてご覧ください)
 
 
 
里山のいろどり2-牡丹2
里山のいろどり2-牡丹2
里山のいろどり2-牡丹2
 虫明・黒井山牡丹園

 いきなり変種で恐縮、花片の先端が千々に裂け火焔の形をしている。

 牡丹が日本に定着してから、文芸に絵画に多くとりいれられ、文字芸術の分野では古今集以降の歌集に格好の題材としてつかわれている。

 明治の歌人木下利玄は下記の歌を詠んでいる。

 「 牡丹花は  咲き定まりて  静かなり 花の占めたる   位置のたしかさ」

 追記※ 木下利玄は岡山足守藩の最後の藩主木下利恭の弟利永の二男として生まれ、5歳の時、利恭の死去により宗家・木下子爵家の養嗣子となって家督を継ぐ。足守木下家は豊臣秀吉の妻寧々の兄の系統、一万石を領して領地足守に陣屋をおき、領主は江戸に在住していた。短歌に優れた才をみせた利玄はアララギ派で活躍すのであるが、若くして結核に病み、この歌は、病床からみる庭に牡丹が静かに咲いていて自分も同じように静かである、という心境を詠んだもの。
 足守には利玄の生家があって、隣接の近水園の花畑には、たしか牡丹がたくさん栽培されていたように記憶する。

里山のいろどり1ー牡丹1
 虫明・黒井山牡丹園

 中国原産の落葉低木、接木で増殖すのが定番でつぎきの台木になるのが芍薬の株、芍薬とこんがる人もいるが芍薬は草に分類される。ちなみに芍薬は漢方で有名、牡丹の根皮も消炎・吐血・鎮痛に有効というのは相似ている。
 8世紀には日本で栽培されていたそうで、明治期に改良をかさね大輪の見応えする多くの品種が出現した。
 どちらかというと湿度を嫌うようで日当たりのいい乾燥土を好み、雨天には花輪に唐傘をかけてやったり、藁屋根で覆って保護している写真絵画をよくみかける。それだけに、ものぐさ者にはちょっと厄介な植物だと、個人的には思っているものの、鑑賞する分には豪華絢爛のきわみをおおいに堪能している。
 入山入園料:500園 4月一杯で閉園と聞いている。
 4月26日に入園したのだが峠をこえて花片に窶れがめだっていた。株数:1200本
 ブログではしばらく牡丹を掲載する予定、ただし、品種名は夥種類でメモを途中であきらめたため不詳。

百閒川のいろどり45-古代の残照
百閒川のいろどり45-古代の残照
百閒川のいろどり45-古代の残照
 百閒川遺跡

 原尾島、兼本、沢田の左岸河川敷の遺跡を称して「百閒川遺跡」とよばれている。今、沢田橋上の公園内に集約した竪穴住居や橋脚が再現されている。
 弥生・古墳時代のもので稲田や土器のような生活品も発掘されている。
 おそらくそのころは、川といっても平野に幾筋の水路が流れ込んでいる様態がみられ、まして操山の裾あたりまで海域だったそうだから貝類小魚などの漁に、穀類の運搬に水路をまたぎ浜に橋脚をだして小舟の出入りに供したとおもわれる。
 燃えるような夕日に佇んでいると、古代人が現出して怪訝な表情を投げかけている貌がみえてくるのである。

 
旭川のいろどり44-堤の桜を愛でる
旭川のいろどり44-堤の桜を愛でる
旭川のいろどり44-堤の桜を愛でる
 中牧の花を愛でる

 4月末、岡山の桜木は花を終えて若葉を萌芽している。
 どこの桜が、愛でるのにもっともいいか、などと他人に聞いてもおそらく千差万別で厳密に順位をつけるわけにはいかない。(・・・桜)(・・・桜)と広く知られている名所桜は咄嗟におもいうかべられるのだが、社会の組織をはなれてみると、それらは「賑わい」の桜になって、ほんとの観賞域からは遠ざかり、醒めて思える。
 エドヒガシ&オオシマザクラの交配種で、日本の80%を占めて凌駕しているソメイヨシノはいわば国民的な花木で、地方のしられざる局地いたるところに植栽され、地域のシンボルになって、囃されるでなく華を咲かせ花吹雪になって散り終わる。これこそ「愛でる」桜ではないか。
 旭川右岸の玉柏野々口線・県道218号線をさかのぼり
、中牧集落の堤防に咲く桜並木は私にとって秀逸であり、河川敷に車を停めコンビニの幕の内をひらくのが秘かな楽しみである。この位置でのもう一つの絶景は川向うの連なる丘陵の山腹をいろどる山桜の開花だ。
 見事に尽きる。
 出かけるのが遅れた今年は、ソメイヨシノは散りそめにはいり、山桜は残滓の残り花だった。
 
百閒川のいろどり26-フェスティバル
百閒川のいろどり26-フェスティバル
 第19回百閒川ふれあいフェスティバル

  屋外の催事には絶好の日和になり、河川敷は家族連れで賑わっていた。四方をテントが囲み、食べ物はもちろん花菜の苗、植木、の出店が活気ずいていた。天候不順の日々、祭事の当事者は懸念していただろうが喜びが当たった。
旭川のいろどり43-中原橋上3
旭川のいろどり43-中原橋上3
旭川のいろどり43-中原橋上3
 祇園用水

 田園に水はなくてはならない資源である。
 岡山は全国でもワーストに位置するほど降雨量の少ない地域で、中国山脈を源泉にした三大河川に潤いを得て下流の平野に豊沃の耕作地を成していた。明治以降には開拓が興り農地拡大に比して深刻な水争いが頻発した歴史があり、大川から誘引した水を網の目のように水路を巡らして供給、小高い山地では溜池をつくり地域の組合で厳重な管理運営するようになって争いはなくなった。
  旭川の祇園用水もその一水路である。

 画像上:旭川に造られた祇園用水の誘引石堰
   中:取水した水の祇園用水
   下:堤防の突き当たりにある竜之口山の登山口(正規のものではない)
旭川のいろどり43ー中原橋上の風景2
 竜之口山と川原

 この位置から見ると竜之口山が大きな山塊にみえる。
 戦国時代は金川を支配していた松田氏の属城で、頂上の竜之口城には重臣○○(さい所)元常がでばっていた。このものは名のうての男色家であってことのほか美童にめがなく、数人の側小姓をかかえていた、そうだ。
 伝わる話があって今に生きている。
 南の平野では宇喜多直家が勢力をのばしていて、その途上の竜之口城がどうも邪魔になったので攻略すことにした。こんもりした里山にみえても城のあるところは山深く、北面は急峻の崖が旭川におちこみ、手だしができずに、宇喜多忠家を将とする最初の軍勢は撤退してる。直家は得意とする謀計を案じ、臣下の者の美称息子・岡清三郎を、夜な夜な月のてる川原で涼涼笛をふかせ、城主元常がとりこみ側小姓にさせることに成功した。ある夜、清三郎は元常の寝首をかいて宇喜多陣営に帰還、直家の一計通りにはこび竜之口城を陥落させたのである。

 画像:伝承の山と川原
 
 
 
旭川のいろどり42ー中原橋上の風景1
旭川のいろどり42ー中原橋上の風景1
 都会の喧騒をぬけて川畔本来の田園風景がひろがってくるのは中原橋をこえてからだろう、川幅もゆったりした趣で中州の樹木は自然林の蒼が繁っている。
 左岸の堤防下は川上から運ばれてきた砂地が依ってできた畑作の一帯で、これに適した野菜作りがさかんなところだが、近年祇園用水とのあいだにある福祉施設が隆盛でその眺望をうばわれ脇役にかわってきた。この畑作は川下につづいてやがて中州にとりこまれて三野公園あたりまで伸長している。中原橋の川上は大原橋で牟佐の区域であるが、これまた広大な砂地の集積地だからニラやラッキョとかの生産が有名で、需要のたかい黄ニラも栽培されている。
 中原と大原の間を裂いて割りこんだように、竜之口山の丘陵が急峻な裾を強引に旭川の水面へ落とし込んでいた。
 右岸は、堤防を県道岡山ー吉井線の27号線が山陽町に向かってはしり、北側に頂上の円いおだやかな丘陵が稜線をみせている。 

 画像上:中原上流から
 画像下:右岸 宗谷山(頂上に私設公園がある)

 宗谷山公園にのぼってみると、備前平野の市街地が竜之口丘陵と三野丘陵によって鶴翼に望見でき、眼下には福祉施設旭川荘があって花火大会の観覧は見事である。

旭川のいろどり41ー半田山15
旭川のいろどり41ー半田山15
旭川のいろどり41ー半田山15
 異彩
 
 幾度なく半田山をあそび歩いているが、温室棟の内外に足を向けることは少ない。日本風土には相いれない植物で、余程のことがないかぎりこういう熱帯系の施設には最初から興味がなかった。
 今回は孫の同伴なのでひさしぶりに入った。扉をあけると湿度が高くて生温い空気が案の定つつみこんできた。

 
旭川のいろどり40-半田山14
旭川のいろどり40-半田山14
旭川のいろどり40-半田山14
 多肉植物

 刺刺をとってフライパンで焼いたらいかにも食べごたえするだろう、などと飛躍した想像したら下司の考えそうなことだと比喩されそうだ。いつだったか、ウチワサボテンの種類の表皮を剥いだのをテキのように焼いて興味本位で食べたことがある。美味であったかどうか定かな記憶がない、おぼえていないのは日本人の食味には程遠いものであったにちがいない。

 サボテンの種類は多いし、花の色と形も豊富で和の愛でる領域とは明らかに異次元のものである。日本人が好む曖昧なゾーンはいっさいなくて、原色異形をつらぬいている。そのあでやかさ極彩は見事で、あたかもラテン音楽のリズムでダンスを観賞している昂揚がある。
 
旭川のいろどり39ー半田山13
旭川のいろどり39ー半田山13
 花と人との出逢いーユキヤナギ

 和名は雪柳。
 白い小花を連続して傘状についたのを雪にたとえられ、同時にでてくる葉が柳の葉に似ているのでユキヤナギの名をつけられた落葉小低木。
 関東地方の岩上に自生していたものを観賞植物としてとりこまれてから、家庭の庭に、あるいは公園などに植生され小さい傘状白花が連なっての房は、垂れさがり、目をあざむくほどのその白さは遭遇した者に楽しませてくれる。
 ただ上記の樹形だから、境界線に植えておもわぬトラブルを起こしているのを見聞しているので気をつけたい。

 画像上:母子園遊
 画像上:スケッチの一刻
旭川のいろどり38-半田山12
旭川のいろどり38-半田山12
旭川のいろどり38-半田山12
  春の花ーコブシ ハクモクレン

 どちらもモクレン科で落葉高木。文字どうりこぶしほどの白い花を小枝の先につけるのが特徴。特有の香気をもっている。 
 私の記憶では和気、奥津の山に多く自生していた。蒼芽のそろわない落葉樹の峰に春の薫風をかいで感にいたったのを思い浮かべた。
旭川のいろどり37ー半田山11
旭川のいろどり37ー半田山11
旭川のいろどり37ー半田山11
 春の花ーサンシュユ

 ミズキ科の薬用植物。
 朝鮮半島や中国の原産、薬用といわれながら庭園や公園に植栽されて観賞用に供されている。
 花をよくみるとマンサクの形に似て黄色の小さなものを散形花序に成している。
 日本人には語尾が発音しにくいので、単にサンシュで納得している。
旭川のいろどり36-半田山10
 さくらを愛でる2

 十数種におよぶ国民的な観賞花木。バラ科の木で大きくなる代表植物で国花として愛好されている。奈良時代に栽培されはじめ庭園や集落周辺にとりこまれたようだ。ひな祭りやめでたい時の床間の掛軸にみられるのは承知のことだ。
 江戸時代には種類の研究がさかんになり現在の基礎を構築した。
 開花がほぼ10日前後で、天日の関係で短くなる期間なのがあまりに惜しい気がする。しかし日本人の感覚でいえば散り際のいさぎよさ、散りそぼる花弁の吹雪、小川の背に流れる花筏の哀雅的な情緒は歌心の弦を弾くらしい。

 時代の有様で、そのような心琴は吹き飛んで今や賑やかな屋外宴会で定着し、煙と臭気が充満した桜下に推移している。半田山の頂上に近接した広場では学生の車座から嬌声が頭上の桜花をけむにまいている。
 それはそれでコミニュケーションであろう。 
 
旭川のいろどり35-半田山 9
旭川のいろどり35-半田山 9
 さくらを愛でる1

 照る日曇る日、そして肌寒い雨のふる日、さらに執つこくいうとクシャミがでるわ、鼻孔が無性にむずむずして痒いわ、あげく鼻をかみすぎて鼻の頭が赤くなるわ・・・、三寒四温とはよくぞいったもの、かてて花粉症がくわわればひどいことになる。
 屋内退避でうずくまっている分にかぎるが、温かい日差しが窓際にさしこんでくれば、凝っとしていられない、車を駆って外出したくなるのである。

 3月終節、春日和の陽をあびる中を、息子と孫二人が半田山へいくというので二つ返辞で随いていった。半田山写真クラブという会があって、会員の知人が出展されているので展示室へおもむき「ユキワリイチゲ」の迫力ある作品を鑑賞して、園内は西の遊歩道を歩く。
 ロウバイやマンサク、スイセンなどは冬終節の花類、すっかり花弁を散らし、コブシ、ハクモクレン、ユキヤナギ、多種の桜花が空間を白くそめあげ、そのなかにあってサンシュの大木が黄金色の存在をもりあげている。まさしく花回廊の雰囲気をかもしだしていた。
 孫たちは可愛い昆虫のように跳ねている。
 半田山は坂道だらけの園地である。大きくてさも体力あり気な大人が鞴のように息急いて、幼い子供が平地のように坂道をかけまわれるのは、単に身が軽いだけなのであろうか。

 

 
吉備路のいろどり9-備中高松城9
吉備路のいろどり9-備中高松城9
吉備路のいろどり9-備中高松城9
 中世武士の大円団

 初代備中高松城主は石川氏で、清水宗治はその旗下の一武将であった。委細はよくわからないが、石川氏の娘を娶り婿になったが、清水宗治は石川氏に叛き毛利方へ寝返って高松城を手中にしている。
 今の世こそ、反逆といえば社会的に悪の権化にいわれるが、戦国時代は人間の生きる常套戦術でそれほど奇異にうつるものではなかった。批判されるようになったのはおそらく、儒教・朱子学を侍はじめ庶民にひろめた江戸時代の体制が整った時代であって、幕府安寧を社会規範にした思想による。
 宗治の生きていた時代には無縁なもので、毛利の属将でありながら輝元の命を拒絶したり、毛利領土の東はずれを預かって死守さえ厭わず、部下を労わり、湖上の舟で華やかな割腹の最後をとげたのも、これは宗治個人の理念によるものがそうさせたのであろう。
 辞世の句さえ鎌倉室町の世の流れをひきずり、宗治の何処をとっても中世の匂いが芬芬とするのである

[清水宗治法名] 高松院殿救溺祐君清鏡心大居士
 [時 世 の 句]  浮世をば 今こそ渡れ 
            武士の 名を高松の 苔に残して
    
                     (この稿完)

  画像上:宗治首塚
     中:宗治辞世句碑
     下:毛利元徳 宗治記念碑
 
 
吉備路のいろどり8-備中高松城8
 後手・兵どもの夢があと7-2、3、4、5、6、7、8


 毛利側の動勢はというと、天正10年3月15日に秀吉が2万の軍勢で中国制覇にのりだしたとき、あるいはその以前の信長が秀吉に指令を発した段階で意を通じた大阪京都の商人が放った早飛脚により情報を手中したと思うのに、迎撃体制にふにおちない一局面の手当てだけで済ましているのだ。いわく、小早川軍の一武将・末近信賀の隊を援軍に送り込んだのだが、応援隊をそのまま高松城内に採りいれ、城内の総勢5500人の規模に膨らましのは、外郭干戈戦を捨て沼地を最大限自負しての、はなから籠城作戦をとったのがうかがえる。
 寄せ手秀吉の陣構えからみて正攻法の仕掛けは不可能とみて長期戦をえらんだのだろうが、一見籠城側が有利と踏んだのはあくまでも地の利、溢れんばかりの兵数をかかえての籠城は長期になればなるほど食料枯渇の弱点をろていする。かててくわえて大軍をまえにしてとても勝てないと判断したら城兵の士気は著しく萎える。たとえば秀吉が鳥取城を水攻めして兵糧を断ったときの城方は惨憺たる叫喚におちいりあげくに陥落している。状況を把握した毛利輝元は清水宗治あてに、支援できないから「降伏」をうながしたのであるが、宗治は拒絶した。
 足守川の堤防を築く前に、なぜ毛利軍は一部隊ではなく大軍を派遣して迎撃しなかったのか。もろもろの要素が介在していていたようだが、腰のひけた軍略はのちのちの展開に後手を及ぼした。
 
 水攻めは奇略である。発案は黒田官兵衛、長さ約4㎞、高さ8m、底部24m、上幅12mの堤防施工の旗振り奉行には蜂須賀正勝が任命され、実際の工事は秀吉幕下、宇喜多衆、但馬衆が区画分担して完成させた。近隣の住民に土俵一俵に銭100文、または米一升で買い上げ、築堤の人夫には高賃金での土工作業を督励した。上幅12mなどは軍馬がゆるゆる闊歩できるほどの広さである。
 足守川の堰止めには河口の船を廻送させ、石積みして沈める堅固な水留にした。折から雨季、高松城は満々たる湖上に浮かぶ城塞になった。

 このときの城内の有様はいかがなものであったか、大いなる興味があるのだが、如何せんそれを寴うような記述の資料をもちあわせていない。
 
 想像だにしなかった奇抜な秀吉方の行動に驚天動地した毛利輝元は弟にあたる毛利の両川とうたわれる吉川元春、小早川隆景などに急遽出陣を命じ4万の軍勢で高松城を囲んだ。秀吉軍の背後、主として吉備平野の南側を拠に陣構えした。
 この毛利出陣はどうみても遅きに逸する。築堤途上への襲撃ならば混乱に乗じた駆け引きができる。築堤が完工すれば、秀吉側は腰をおちつけた采配が可能になる。
 高松城北には龍王山の山塊があって秀吉が本陣を布き(のち石井山に本陣を移す)両翼に加藤清正、宇喜多忠家、羽柴秀勝、仙石権兵衛、堀尾茂助、羽柴秀長、黒田官兵衛などの歴戦の軍勢を円形に貼り付け指呼の隙間さえみせなかった。ただ南正面の堤防沿いに山内一豊、花房助兵衛の二将のみがポツンと駐陣している箇所が手薄といえば手薄で、毛利の猛将吉川元春が小早川隆景の支援を恃み、短期決戦でおそいかかれば穴を穿つことはできるかもしれなかった。
 目前の山内・花房勢に吉川軍が襲いかかるのが定石、ところがそれを観た秀吉軍の両翼が馳せて東西から包み込んでくるだろうから、両翼を牽制しながら小早川軍が応戦し秀吉本隊が動く前に手足をもぎとり進退の妙を計ればおもわぬ勝機を手中できる可能性はある。
 ただし、援軍と局面の采配をする小早川の陣は日差山にあるので些か距離があるし総采配の毛利輝元にいたっては高梁川を越え小田川沿いの猿掛山に陣をはっている。高松城とは32㎞の距離も離れていては、おいそれと援駆けできにくい。伝令の情報も疎になりがちで、これを緩慢な布陣といっては後世の戯言になるが、いささか気を揉むものである。
 天正10年6月2日、信長は京都本能寺にて明智光秀に討たれた。いわく本能寺の変である。
 信長の茶道相手である長谷川宗仁の放った使者が秀吉陣営にとびこんできた。かたや毛利にも伝令がはしったが秀吉の敷いた網にひかかってこの特報は知るよしもなかった。

 備中、美作、伯耆の3カ国与奪と高松城主清水宗治の切腹を条件にしての和睦は、どちらに利があり勢いがあったかは自明の理、信長の死を極秘にしてもなお弱みを見せず有利に処したのは強靭な戦術である。
 一刻も早く信長命の仇討ちに京へとってかえしたい秀吉は和睦を確認した早々、堤の一角をはなって馬首を東にかえし退却にかかった。そのとき、秀吉のはやる心の背に追撃をかければ毛利の戦力は倍加した筈だが、追撃主張する吉川元春を諌めた小早川隆景は和睦文書を交わした「武士の義」をたてに毛利軍の鋒をおさめさせた。広辞林を開いてみると「義」とは「人をして守るべき正しい道」となっていて、武士の世界にこのような論語がしみついたのは江戸時代の幕閣統制のなせるわざであって、戦国末期にはその比重はあってもわずかだ。小早川隆景がこれを説いたのは清廉愚直とでもいいたいが、この人はもう少し後世に生まれるべき人だった。
 いずれにせよ、最大で最後の覇道への機を、毛利は逸した。関ヶ原の戦いでも股を裂くような行動をとり、禄高を大きく減じ日本海の僻地に封じこめられ、長い雌伏に耐えかねて日本の舞台に爆発するのは、明治維新まで待つしかない。

 備中高松城の攻防において毛利の「なぜ」の疑問を未消化のまま追ってみたが、これはもう家祖・毛利元就の遺言が身骨に沁みた呪縛であって「永代」のトラウマだった気がする。 

 

 
 
  
  
吉備路のいろどり7-備中高松城7
 転結・兵どもが夢のあと7-1

 宇喜多家の安寧保証を約して毛利家から寝返らせた秀吉は、天正10年3月15日に姫路城を出陣、4月に備前岡山に着き直家を見舞った、余談だがこの時、絶世の美女といわれていた正室の於福を見染めはやばや手をつけている、好色秀吉ならではの手早い行為だ。
 敵地の備中に兵馬を進め、毛利の前線基地だった備中七城をつぎつぎ攻略し残る主城高松城をとりかこんだが沼地を前に攻めあぐねた。城に通じる細い道はあったもののこれを使うと軍列は細く伸びきって城内からの弓矢、鉄砲の格好の的になって手足もでない状況であった。
 
 
 

< 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 >