とんび歳時記ー短い秋1
 秋日和になったり合せ着が欲しいほどの寒気になったり、相も変わらずの気候変動の激しさに愚痴をこぼしていると、季節の変わり目だからしかたがないと諭される始末。季節のパターンはわかるけど、その振幅の度合いが激しすぎる。
 体の調整に煩わしさがつのる。

 東岡山の小高い丘にのぼって新幹線を入れた景色を撮っていると、春のような日射しのなか紅葉の空間をアカトンボとモンシロチョウが翔んでいた。そういえば今朝、庭のラズベリーが数枝に実をつけて熟し美味しそうに黒ずんでいたのを口に含んだことを思いだした。
 春夏混在どころか春夏秋の三季混在である。
とんび歳時記ー旭川下流域のいろどり2
 ある記念として、また堤防の強化策として一時期さくらの植樹がさかんにおこなわれた。四季を愛でることと防災との一挙両得で結構であるが、防災をかんがえてみると少し初歩的な疑問がある。およそ寿命が百年といわれるらしいけど枯れて朽ちた根幹部分はいったいどうなるだろう、土中で腐食し微生物に分解されて多分土に還るだろうけどその痕の形態は空洞のままなのだろうか、周囲の土砂がじわじわ埋めていくのだろうか、気の永い期間を要するはしかたがないとしても、陥没し事故をおこしかねないではないか、されば根こそぎ掘り起こすにしても縦横に張った根の排除は容易ではなく、堤防を脆くさせる要因になるのではないか。
 などと、凡人はいらざる探求するものである。
 老樹になると幹に空洞がおこり、名のある樹は治療されてぐるぐる包帯を巻かれては銘木といえども風雅どころかいたましいかぎりである。

とんび歳時記ー風媒花・ガマ
 またたくまに季節がすすんで山野の植物は花を咲かせ実をつける。
 秋の山野草はいっせいに花弁を開き、木片の枝は赤や濃紺の実をたわわにつける。
 里山の麓では湿田に特有の穂を葉先の上に伸ばしているのを目にするようになった。
 ガマである。

 ガマの茶褐色の穂は、カマボコの語源で今でいうのならチクワの形である。色といい、そのまんまなのがなんとも微笑ましい。
 風媒花の所以は、穂の下部が雄花で上部が雌花に分かれていて秋深くなると一斉に穂全体に白い小花を咲かせて種子をだいたまま風に吹かれて飛び、落ちた湿地に根をはやし生育域を広げていく。風媒の散るその光景は雪が舞うようで不意に遭遇すると一瞬目をみはるものがある。
とんび歳時記ー青い山
 ー分け入っても分け入っても青い山ー

 放浪俳人種田山頭火の有名な句である。
 俗の世間を捨て鋭い感性の身を放浪に投じた滲みをすくいとることができる。
 高山とか、あるいは県内の山深いところでもいいが、夏秋が混在しているこのころを歩いているとこのような句が思いわいてくる。今は山が青いと表現できる端境期であって、やがて紅葉になり落葉になる前のわずかな期間の舞台でもある。
 県南の近場で手入れが疎かになった森では枝打ちもままならずに放置され、蔓の類がヒトデのようにのびて山道を塞ぐなど鬱蒼たる薄暗い森は数多くある。
 わずかな人跡を追って分け入っても草丈が膝をかくすほどになれば、長虫や人害のある虫を先ずかんがえると自ずと踵をかえすようになるのではないか。
 これ以上、林業の衰退がつづくと遠からず人里半ばはジャングル化して俳句を詠むどころではなくなるし、山越えの放浪ロマンなど夢のまた夢の青い山になる。
 
 
とんび歳時記ー中秋の名月や
 大相撲千秋楽のTV座敷からはなれられず、夕暮れになって愛犬の散歩にでかけた。
 用水路沿いの路を、とまっては匂いを嗅ぐ相棒にあわしていると、自動車学校の灯りとはちがう明るさに気がついてみあげると東空に真円の月がぽっかり浮かんでいた。
 そうか、今日は中秋の満月だったのだ。
 大人ばっかりの我が家に、ススキを活けてお団子を供える風習などあろうはずがないのですっかり忘れていた。
 人通りのたえた月明かりの道を愛犬と会話しながら歩いた。
とんび歳時記ー北房・彼岸の花
 田畑の角に咲いている盆花といえばミソハギというのが一昔の定番であったが、今はほとんど見かけなくなった。黄金色の穂が垂れはじめた畔や堤を、鮮やかな紅をひいているのがヒガンバナで、実にあでやかさをほこっている。
 彼岸入りの日に姉と一緒に故郷の墓参に詣でた。
 線香のたゆとう煙越しの彼方に咲くのがこの花だ。
 この季節によく似合う花である。
とんび歳時記ー北房・案山子や~い
 鳥獣の害をふせぐ稲田の番人であり豊穣の祀神である。
 かって魚の頭を焼いて串刺したものを畔に立てたという風習を聞いたことがある。これなど鼻覚による牽制方法であるが案山子は視覚による威嚇方法。
 しかし、人間側からみると脅しとはほど遠いコミカルなイデタチである。いまでは山奥の平地から都会のはずれに進出してきて最近イベント的な人寄せに使われているのをよくみかける。
 ところが、よくよく見ると案山子の肩にとまって囀っているスズメをみかけるのは、いかんともしがたい思いだが長閑な風景とみる分にはこれ以上のことはない。
とんび歳時記ー百閒川のいろどり8
とんび歳時記ー百閒川のいろどり8
 夏秋混在。
 水量は落ちて、川というより処々の溜まりは湿原に変貌している。長野の深層湿原は、広く雄大で初秋のそれは緑色から枯れ茶色に変幻して自然摂理の深さを堪能させてくれるうつろいの美しさは忘れ難いものがある、その風貌の一画をきりとってみるならば、渇水期の川辺に些少ながら面影を見出すことができる。
 浮草は枯れ、蝦蟇や葦が枯れ立ち、流れをとめた水面に蒼く澄んだ空の淡い夏雲を映している。
 すっかり浅瀬になった水中にシラサギが哲学者のように棒立し、葦の根元からカイツブリがあわただしく走り、唯一流れる護岸の際でおおきな鯉が水面にひれをだして泳いでいる。
 散歩の背につたう汗をおぼえた。
 夏秋混在の短い秋なのである。
 
とんび歳時記ーお散歩フレンド10
ビーグル [ココちゃん] ♂ 12才
とんび歳時記ー百閒川のいろどり7
 白色ヒガンバナ。
 紅いヒガンバナが大本で白色は珍しかったが今ではいたるところにみられるようになった。分布の有様はよくわからないが球根をだれかが植栽したのだろうか。
 
とんび歳時記ー百閒川のいろどり6
とんび歳時記ー百閒川のいろどり6
 ハギ(まめ科)
 ウツギ(ユキノシタ科)
 秋と夏が混在している気候にこの2種の植物はおあつらえ向きの花を咲かす。
 一本一本の茎は細くしなやか、小さな花弁を連ねる花序になり、さかんに枝分れしながら大きな株を形成、柳風の枝垂れになる。
 種類の多い植物。
 科、属表で検索をしかけたのであるが、持続力を失くして頁をめくるのをあきらめた。第一、活字が小さすぎる。

註:ウツギは誤りでハナゾノツクバネウツギが正解のようです。
   山野草の師匠からのアドバイスです。

とんび歳時記ー傘踊りin夏まつり
 傘おどりは戦国時代の発祥といわれ、雨乞いあるいは慰霊とかの意味がこめられて伝承されているようだ。
 風のあしあとに囲まれて舞う舞台の彩は、一段と映えていた。



               (画像添付承諾取得済)
とんび歳時記ー竜之口1・水田に咲く花
 田んぼの畔には刈られても刈られてもてもたちまち伸びる草が小径を覆ってしまう。農家との格闘である。
稲をふくめた植物が一年でもっとも伸長する季節。
 そのなかに水田や休耕田に群落をつくって盛り上がって黄弁の花を咲かせるのが、ヒレタゴボウとよばれる野草である。戦後帰化した熱帯アメリカ産の植物で、水湿を好んで繁殖しているところをみると肥料などに混在して種子がはこばれたようだ。温暖化の申し子のような存在だと思うのだが、花はアメリカミズキンバイともよばれていて、結構キレイで見栄えする。

とんび歳時記ー姉妹
成長につれ顔つきに変化があらわれる。
 その成長の著しいのに驚き、人生下り坂をころがるものにとって眩しいほどである。
 
とんび歳時記ー青穂の平原
とんび歳時記ー青穂の平原
 瑞穂の風土、豊穣の稔り、出穂の時を刻むたしかな青いうねり、白い小さな花をつけてやがてたわわに垂れる。
 稲作のステップはたしかに始動している。
 農耕の民の原点である米つくりは今大きな変節の時代をむかえ、日本人がためのエネルギー文化を出穂はもろもろ問いかけているようだ。
とんび歳時記ー晩夏のいろ
 特別暑かった季をどうやら凌げたようだ。
 朝夕に爽やかさがながれると、熱い膨張した大気よりやや冷えた空気のほうが咽頭の通りもいいし行動しやすくさせてくれる。
 夏雲よさらばである。秋の夕暮れにあふれる夕焼けの空、それに向かってとんびのように翔んで溶けていきたい、そう想う日は遠くない。
とんび歳時記ーお散歩フレンド9
 パピヨン [リクくん] ♂ 3カ月
 公園デビュー
とんび歳時記ー百閒川のいろどり4
とんび歳時記ー百閒川のいろどり4
 晩夏の装いがみられるようになると、水量が減って護岸の沈石がうきあがってみえるようになる。流れは一条の波紋を残すだけで水面だけをみると広くは澱んでいるような按配だ。午後の日差しにたちどまっていると、護岸の背にキラッ キラッと銀色が映えて反転しているものが目敏くとらえられ、馴れると大きいのやら小さいのやら、果断なくひからせているのがわかる。
 それはナイフのようだ。正体は岡山弁でいえばハエでありオイカワともいう。
 精磨の刃を手首でひねりながら踊っている危険な動きにみえる。川下から川上に整然と縦に光り決して横になることはない、やはり水面下では結構な流れがあるのだろう。この時期、とくに瀬を好み夕暮れは水面ちかくを舞う羽虫を追って捕食する性質があり、雄は虹に似た婚姻色を体にまとう。
 春から夏にかけて鴨の群れが多い川なのだが渡り鳥は今、遠い大陸へ旅立っておる筈、ところがどの世界でも異端児はいるもので、越年組のひょうきん族の一個小隊が此処あそこに遊弋している。多くて7羽ていどの小隊で達観したような顔つきを悠々泳がしている。雄は雌とかわらない体色にもどってたいてい1~2羽がまじり隊列をリードしていた。
 ある日、特大のネズミトリが石段に日向ぼっこしており鴨の群れを冷酷な眼光で凝視していたのに出会った。あんな大きなものが獲物になるまいに、やがて水中に入り首から下を水にかくしてあたかも潜望鏡のように貌をだして鴨に近ずいたものの、どうあがいても呑み込めないと判断したのか元の石段に上がってなおもあきらめきれづに鴨をみつめていた。
 ある日、真菰をガサガサさせて肥満なヌートリアがわけでて茎をガリガリ齧りだしたのには驚いた。
 小さな秋は生命体の躍動する季節でもある。

 *画像上 越年鴨の小隊
    下 ナイフみたいにひらめくハエ だがカメラの解像度がおいつかない
 
とんび歳時記ー路地裏の太陽
 夕暮れに西空へ落ちる太陽は路地裏をいちだんと濃淡濃くし夕なずみが疾やくなる。太陽自体は白く赤いひかりでめくらましするほど強い。
 散歩で路地から路地をたどり全身赤く染めると別世界にとびこんだようだ。
とんび歳時記ー百閒川のいろどり3
とんび歳時記ー百閒川のいろどり3
 堤防の上はほどよい遊歩道になっている。
 樹木や屋根のある建物など日陰になるものはなにもないので暑い日はたいへん。
 けれど、風が流れると火照った体に涼やか体感をもたらしてくれて足の動きが軽やかに弾んだ。
 小さな秋の匂いをふくんでいるようだ。
 名のしらぬ草が細い穂をいっぱい吹き出して白い側壁をつくっていた。
 なんの巣だろう、その穂をくるくる丸めているのがたくさんみうけられる。
 風がながれるたび連なった波にそれだけが不規則な揺れをみせていた。
 *註 巣ごときは人為の戯
 

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