吉備路のいろどり9-備中高松城9
吉備路のいろどり9-備中高松城9
吉備路のいろどり9-備中高松城9
 中世武士の大円団

 初代備中高松城主は石川氏で、清水宗治はその旗下の一武将であった。委細はよくわからないが、石川氏の娘を娶り婿になったが、清水宗治は石川氏に叛き毛利方へ寝返って高松城を手中にしている。
 今の世こそ、反逆といえば社会的に悪の権化にいわれるが、戦国時代は人間の生きる常套戦術でそれほど奇異にうつるものではなかった。批判されるようになったのはおそらく、儒教・朱子学を侍はじめ庶民にひろめた江戸時代の体制が整った時代であって、幕府安寧を社会規範にした思想による。
 宗治の生きていた時代には無縁なもので、毛利の属将でありながら輝元の命を拒絶したり、毛利領土の東はずれを預かって死守さえ厭わず、部下を労わり、湖上の舟で華やかな割腹の最後をとげたのも、これは宗治個人の理念によるものがそうさせたのであろう。
 辞世の句さえ鎌倉室町の世の流れをひきずり、宗治の何処をとっても中世の匂いが芬芬とするのである

[清水宗治法名] 高松院殿救溺祐君清鏡心大居士
 [時 世 の 句]  浮世をば 今こそ渡れ 
            武士の 名を高松の 苔に残して
    
                     (この稿完)

  画像上:宗治首塚
     中:宗治辞世句碑
     下:毛利元徳 宗治記念碑
 
 
吉備路のいろどり8-備中高松城8
 後手・兵どもの夢があと7-2、3、4、5、6、7、8


 毛利側の動勢はというと、天正10年3月15日に秀吉が2万の軍勢で中国制覇にのりだしたとき、あるいはその以前の信長が秀吉に指令を発した段階で意を通じた大阪京都の商人が放った早飛脚により情報を手中したと思うのに、迎撃体制にふにおちない一局面の手当てだけで済ましているのだ。いわく、小早川軍の一武将・末近信賀の隊を援軍に送り込んだのだが、応援隊をそのまま高松城内に採りいれ、城内の総勢5500人の規模に膨らましのは、外郭干戈戦を捨て沼地を最大限自負しての、はなから籠城作戦をとったのがうかがえる。
 寄せ手秀吉の陣構えからみて正攻法の仕掛けは不可能とみて長期戦をえらんだのだろうが、一見籠城側が有利と踏んだのはあくまでも地の利、溢れんばかりの兵数をかかえての籠城は長期になればなるほど食料枯渇の弱点をろていする。かててくわえて大軍をまえにしてとても勝てないと判断したら城兵の士気は著しく萎える。たとえば秀吉が鳥取城を水攻めして兵糧を断ったときの城方は惨憺たる叫喚におちいりあげくに陥落している。状況を把握した毛利輝元は清水宗治あてに、支援できないから「降伏」をうながしたのであるが、宗治は拒絶した。
 足守川の堤防を築く前に、なぜ毛利軍は一部隊ではなく大軍を派遣して迎撃しなかったのか。もろもろの要素が介在していていたようだが、腰のひけた軍略はのちのちの展開に後手を及ぼした。
 
 水攻めは奇略である。発案は黒田官兵衛、長さ約4㎞、高さ8m、底部24m、上幅12mの堤防施工の旗振り奉行には蜂須賀正勝が任命され、実際の工事は秀吉幕下、宇喜多衆、但馬衆が区画分担して完成させた。近隣の住民に土俵一俵に銭100文、または米一升で買い上げ、築堤の人夫には高賃金での土工作業を督励した。上幅12mなどは軍馬がゆるゆる闊歩できるほどの広さである。
 足守川の堰止めには河口の船を廻送させ、石積みして沈める堅固な水留にした。折から雨季、高松城は満々たる湖上に浮かぶ城塞になった。

 このときの城内の有様はいかがなものであったか、大いなる興味があるのだが、如何せんそれを寴うような記述の資料をもちあわせていない。
 
 想像だにしなかった奇抜な秀吉方の行動に驚天動地した毛利輝元は弟にあたる毛利の両川とうたわれる吉川元春、小早川隆景などに急遽出陣を命じ4万の軍勢で高松城を囲んだ。秀吉軍の背後、主として吉備平野の南側を拠に陣構えした。
 この毛利出陣はどうみても遅きに逸する。築堤途上への襲撃ならば混乱に乗じた駆け引きができる。築堤が完工すれば、秀吉側は腰をおちつけた采配が可能になる。
 高松城北には龍王山の山塊があって秀吉が本陣を布き(のち石井山に本陣を移す)両翼に加藤清正、宇喜多忠家、羽柴秀勝、仙石権兵衛、堀尾茂助、羽柴秀長、黒田官兵衛などの歴戦の軍勢を円形に貼り付け指呼の隙間さえみせなかった。ただ南正面の堤防沿いに山内一豊、花房助兵衛の二将のみがポツンと駐陣している箇所が手薄といえば手薄で、毛利の猛将吉川元春が小早川隆景の支援を恃み、短期決戦でおそいかかれば穴を穿つことはできるかもしれなかった。
 目前の山内・花房勢に吉川軍が襲いかかるのが定石、ところがそれを観た秀吉軍の両翼が馳せて東西から包み込んでくるだろうから、両翼を牽制しながら小早川軍が応戦し秀吉本隊が動く前に手足をもぎとり進退の妙を計ればおもわぬ勝機を手中できる可能性はある。
 ただし、援軍と局面の采配をする小早川の陣は日差山にあるので些か距離があるし総采配の毛利輝元にいたっては高梁川を越え小田川沿いの猿掛山に陣をはっている。高松城とは32㎞の距離も離れていては、おいそれと援駆けできにくい。伝令の情報も疎になりがちで、これを緩慢な布陣といっては後世の戯言になるが、いささか気を揉むものである。
 天正10年6月2日、信長は京都本能寺にて明智光秀に討たれた。いわく本能寺の変である。
 信長の茶道相手である長谷川宗仁の放った使者が秀吉陣営にとびこんできた。かたや毛利にも伝令がはしったが秀吉の敷いた網にひかかってこの特報は知るよしもなかった。

 備中、美作、伯耆の3カ国与奪と高松城主清水宗治の切腹を条件にしての和睦は、どちらに利があり勢いがあったかは自明の理、信長の死を極秘にしてもなお弱みを見せず有利に処したのは強靭な戦術である。
 一刻も早く信長命の仇討ちに京へとってかえしたい秀吉は和睦を確認した早々、堤の一角をはなって馬首を東にかえし退却にかかった。そのとき、秀吉のはやる心の背に追撃をかければ毛利の戦力は倍加した筈だが、追撃主張する吉川元春を諌めた小早川隆景は和睦文書を交わした「武士の義」をたてに毛利軍の鋒をおさめさせた。広辞林を開いてみると「義」とは「人をして守るべき正しい道」となっていて、武士の世界にこのような論語がしみついたのは江戸時代の幕閣統制のなせるわざであって、戦国末期にはその比重はあってもわずかだ。小早川隆景がこれを説いたのは清廉愚直とでもいいたいが、この人はもう少し後世に生まれるべき人だった。
 いずれにせよ、最大で最後の覇道への機を、毛利は逸した。関ヶ原の戦いでも股を裂くような行動をとり、禄高を大きく減じ日本海の僻地に封じこめられ、長い雌伏に耐えかねて日本の舞台に爆発するのは、明治維新まで待つしかない。

 備中高松城の攻防において毛利の「なぜ」の疑問を未消化のまま追ってみたが、これはもう家祖・毛利元就の遺言が身骨に沁みた呪縛であって「永代」のトラウマだった気がする。 

 

 
 
  
  
吉備路のいろどり7-備中高松城7
 転結・兵どもが夢のあと7-1

 宇喜多家の安寧保証を約して毛利家から寝返らせた秀吉は、天正10年3月15日に姫路城を出陣、4月に備前岡山に着き直家を見舞った、余談だがこの時、絶世の美女といわれていた正室の於福を見染めはやばや手をつけている、好色秀吉ならではの手早い行為だ。
 敵地の備中に兵馬を進め、毛利の前線基地だった備中七城をつぎつぎ攻略し残る主城高松城をとりかこんだが沼地を前に攻めあぐねた。城に通じる細い道はあったもののこれを使うと軍列は細く伸びきって城内からの弓矢、鉄砲の格好の的になって手足もでない状況であった。
 
 
 

吉備路のいろどり5-備中高松城址5
 思惑5・兵どもが夢のあと5

 手元にある少ない資料をみればみるほど、この戦に臨んで、毛利勢の腰の引けたような動きは、気の抜けた炭酸飲料を飲んでいる気分になる。華やかで派手な織田勢にくらべればこの緩慢さはどこからきているだろうと、消化できない澱になってぶつぶつ胃の中でわいている。もっとも、詳しい資料を読解すれば謎がとけるとおもうが、あいにく頭に摺りこんでいる僅かな知識やら些少な資料では誤解をおそれず勝手な記述でしかできないので、あえて想像をまじえ澱を飲み込むこととしたい。
吉備路のいろどり4ー備中高松城址4
 対峙・兵どもが夢のあと4

 備中の地は毛利氏の領土からすれば最東端にあたり、隣地は備前・宇喜多直家の支配地になる。[中央に出るな中国にとどまれ]という元就遺訓によって覇権拡大はなきにしても、中国地方の境界になる備前岡山まではせめてわがものにしたいという戦略心はあっただろう。事実、播磨備中にかけて権力をふるった守護・赤松の衰退時期は北から次男吉川元春勢、山陽がわから三男小早川隆景勢がいくどなく戦馬を乗り入れ攻略をかけている。史実をみると、そのときの情勢は宇喜多氏が味方にあったときに符号するのが、大国毛利の弱点をあらわしている。点と線では相互の思惑が交差した時の泡沫のような点だけの同盟で蜘蛛の糸の繋がりにすぎない危うさが、境界を越えるときには付きまとう。
 よって、毛利勢が東進しようとしても宇喜多氏が瘤になっているので安易に軍馬を進めることができない、この宇喜多直家は守護代浦上氏の家老職にありながら下剋上を平左でやってのけるほどだから時勢に応じて離れては従い欺いたり、そのつど離合集散をくりかえすものだから、一夜に寝返られていつ寝首をかかれるかわからない不気味さを内包しているから徒に戦矛をふりあげることもかなわず、さりとて迂闊に手を握ることも危ない厄介な存在であったが、秀吉進駐このときはさすがの直家も末期の病頭に秀吉を迎え加担を約し、後継の秀家の後事安穏を願ったとつたえられる。
 ここで宇喜多勢1万は織田勢2万にくみこまれ備中へおしだした。
 一方、毛利氏の備中七城が攻防前線の基地で、備中高松城 宮路山城 冠山城 加茂城 日幡城 撫川城 松島城、その旗頭が備中高松城で主将が備中高松城の清水宗治である。
 そして毛利総勢4万が対峙する。
 
 侵攻途上の七城小城は巨獣が蟻を踏みつぶすように秀吉軍は攻略して除け、沼地のなかの主力高松城を囲んだのだが、人馬ものみこむ沼地に攻めあぐね、戦巧者の秀吉は陣をはったもののいたずらに揉むことにならなかった。
 

 

吉備路のいろどり3ー備中高松城址3
 水攻めの堤・兵どもが夢のあと3

[某草野球コーチのつぶやき]
ーー水溜めの堤防は全長3キロ高さ7メートルだって よくやるよなぁ ダンプやシュベルカーなんかなかったによ 足守川から稲荷の大鳥居があるところまでだろう えっなんだってカワズガバナ・・・そうそう蛙ヶ鼻だ かえるの鼻ってまた笑わせる地名だなぁ
 でんばたの土をもっこでえっさえっさ運んで積み上げたんだろうけど人海作戦の辛苦は相当な苦力、銭に糸目をつけなかったというから家中の筵やら俵はもちろん藁束まで放出し日銭もはいっただろうからそこら一帯土木銀座になったんじゃなおそらく 12日で完成じゃろう まったくやればやれるもんじゃ--

 堤防のよすがは両端にわずかみることができる。足守川の方は標識で知るしかないが、石井山裾の蛙ヶ鼻の方はそれとわかる堤防の端が春耕の田につきでている。ずいぶん痩せた土盛りに消失していて往時の壮大さは偲ぶよすがもないほどだが、かろうじて形跡は残存されている。

  
 
 
 

 
 
 
吉備路のいろどり2ー備中高松城址2
吉備路のいろどり2ー備中高松城址2
 攻防・兵どもが夢のあと2

 天正10年当時の城域は大規模の沼地で人馬が踏み込めない天然の要塞化していた。資料や絵図などをうかがい見ると、まさしく広大な堀である。水を満々と湛えた堀よりはるかに始末におえない湿泥地があらわれ、守る方の機動性をうばった以上に寄手の秀吉軍2万に宇喜多軍1万をくわえた総勢3万の大軍は、遠巻きに囲むだけで手足もでなかったし、清水宗治支援の、毛利軍の主将毛利輝元、猛将吉川元春、知将小早川隆景の三兄弟もさらに手つかず望見するだけでの、奇妙な戦陣で持久戦に展開していったのは目に見えるようだ。
 城攻めを得意とする秀吉の猿面が切歯扼腕する図こそ見物だったろう。まして信長の出征を要請しているのだから是が非でも勝利の詰めをしておく必要があった。
 双方の布陣図をみると南に古代史跡群のある吉備丘陵地帯が展がって小早川、吉川の陣取り、向かい合って山内一豊、花房助兵衛、北に当初秀吉が本陣を張った龍王山連峰がうねをつくり、その麓の高松城背後には羽柴秀勝、宇喜多忠家、与田与左衛門、加藤清正がつらなり、南東の端には後で移した秀吉本陣が構えた石井山がのぞまれ、頂上右接に仙石権兵衛、左接に黒田官兵衛、麓に堀尾茂助の名がみえる。
 その山裾を東に旋回したところに、肝心な蛙ヶ鼻がある。
吉備路のいろどり1ー備中高松城址1
 陣触れ・兵が夢のあと1

 戦国時代、この地あたりは備前と備中の境を接していた。というより、安芸毛利輝元の最東領域にあたり、一股またげば備前岡山の支配地に足を卸すことになりかねない。出来星大名の宇喜多氏が領土としてかかえており、日の出の勢いであった織田軍中国制覇の司令官である羽柴秀吉が進撃してきた時代のころは、後世梟雄と評された宇喜多直家はすでに没し、嫡子秀家に代替し秀吉軍の先鋒として1万の兵を拠出、勇躍参陣していた。