吉備路のいろどり5-備中高松城址5
 思惑5・兵どもが夢のあと5

 手元にある少ない資料をみればみるほど、この戦に臨んで、毛利勢の腰の引けたような動きは、気の抜けた炭酸飲料を飲んでいる気分になる。華やかで派手な織田勢にくらべればこの緩慢さはどこからきているだろうと、消化できない澱になってぶつぶつ胃の中でわいている。もっとも、詳しい資料を読解すれば謎がとけるとおもうが、あいにく頭に摺りこんでいる僅かな知識やら些少な資料では誤解をおそれず勝手な記述でしかできないので、あえて想像をまじえ澱を飲み込むこととしたい。
吉備路のいろどり4ー備中高松城址4
 対峙・兵どもが夢のあと4

 備中の地は毛利氏の領土からすれば最東端にあたり、隣地は備前・宇喜多直家の支配地になる。[中央に出るな中国にとどまれ]という元就遺訓によって覇権拡大はなきにしても、中国地方の境界になる備前岡山まではせめてわがものにしたいという戦略心はあっただろう。事実、播磨備中にかけて権力をふるった守護・赤松の衰退時期は北から次男吉川元春勢、山陽がわから三男小早川隆景勢がいくどなく戦馬を乗り入れ攻略をかけている。史実をみると、そのときの情勢は宇喜多氏が味方にあったときに符号するのが、大国毛利の弱点をあらわしている。点と線では相互の思惑が交差した時の泡沫のような点だけの同盟で蜘蛛の糸の繋がりにすぎない危うさが、境界を越えるときには付きまとう。
 よって、毛利勢が東進しようとしても宇喜多氏が瘤になっているので安易に軍馬を進めることができない、この宇喜多直家は守護代浦上氏の家老職にありながら下剋上を平左でやってのけるほどだから時勢に応じて離れては従い欺いたり、そのつど離合集散をくりかえすものだから、一夜に寝返られていつ寝首をかかれるかわからない不気味さを内包しているから徒に戦矛をふりあげることもかなわず、さりとて迂闊に手を握ることも危ない厄介な存在であったが、秀吉進駐このときはさすがの直家も末期の病頭に秀吉を迎え加担を約し、後継の秀家の後事安穏を願ったとつたえられる。
 ここで宇喜多勢1万は織田勢2万にくみこまれ備中へおしだした。
 一方、毛利氏の備中七城が攻防前線の基地で、備中高松城 宮路山城 冠山城 加茂城 日幡城 撫川城 松島城、その旗頭が備中高松城で主将が備中高松城の清水宗治である。
 そして毛利総勢4万が対峙する。
 
 侵攻途上の七城小城は巨獣が蟻を踏みつぶすように秀吉軍は攻略して除け、沼地のなかの主力高松城を囲んだのだが、人馬ものみこむ沼地に攻めあぐね、戦巧者の秀吉は陣をはったもののいたずらに揉むことにならなかった。
 

 

吉備路のいろどり3ー備中高松城址3
 水攻めの堤・兵どもが夢のあと3

[某草野球コーチのつぶやき]
ーー水溜めの堤防は全長3キロ高さ7メートルだって よくやるよなぁ ダンプやシュベルカーなんかなかったによ 足守川から稲荷の大鳥居があるところまでだろう えっなんだってカワズガバナ・・・そうそう蛙ヶ鼻だ かえるの鼻ってまた笑わせる地名だなぁ
 でんばたの土をもっこでえっさえっさ運んで積み上げたんだろうけど人海作戦の辛苦は相当な苦力、銭に糸目をつけなかったというから家中の筵やら俵はもちろん藁束まで放出し日銭もはいっただろうからそこら一帯土木銀座になったんじゃなおそらく 12日で完成じゃろう まったくやればやれるもんじゃ--

 堤防のよすがは両端にわずかみることができる。足守川の方は標識で知るしかないが、石井山裾の蛙ヶ鼻の方はそれとわかる堤防の端が春耕の田につきでている。ずいぶん痩せた土盛りに消失していて往時の壮大さは偲ぶよすがもないほどだが、かろうじて形跡は残存されている。

  
 
 
 

 
 
 
吉備路のいろどり2ー備中高松城址2
吉備路のいろどり2ー備中高松城址2
 攻防・兵どもが夢のあと2

 天正10年当時の城域は大規模の沼地で人馬が踏み込めない天然の要塞化していた。資料や絵図などをうかがい見ると、まさしく広大な堀である。水を満々と湛えた堀よりはるかに始末におえない湿泥地があらわれ、守る方の機動性をうばった以上に寄手の秀吉軍2万に宇喜多軍1万をくわえた総勢3万の大軍は、遠巻きに囲むだけで手足もでなかったし、清水宗治支援の、毛利軍の主将毛利輝元、猛将吉川元春、知将小早川隆景の三兄弟もさらに手つかず望見するだけでの、奇妙な戦陣で持久戦に展開していったのは目に見えるようだ。
 城攻めを得意とする秀吉の猿面が切歯扼腕する図こそ見物だったろう。まして信長の出征を要請しているのだから是が非でも勝利の詰めをしておく必要があった。
 双方の布陣図をみると南に古代史跡群のある吉備丘陵地帯が展がって小早川、吉川の陣取り、向かい合って山内一豊、花房助兵衛、北に当初秀吉が本陣を張った龍王山連峰がうねをつくり、その麓の高松城背後には羽柴秀勝、宇喜多忠家、与田与左衛門、加藤清正がつらなり、南東の端には後で移した秀吉本陣が構えた石井山がのぞまれ、頂上右接に仙石権兵衛、左接に黒田官兵衛、麓に堀尾茂助の名がみえる。
 その山裾を東に旋回したところに、肝心な蛙ヶ鼻がある。
吉備路のいろどり1ー備中高松城址1
 陣触れ・兵が夢のあと1

 戦国時代、この地あたりは備前と備中の境を接していた。というより、安芸毛利輝元の最東領域にあたり、一股またげば備前岡山の支配地に足を卸すことになりかねない。出来星大名の宇喜多氏が領土としてかかえており、日の出の勢いであった織田軍中国制覇の司令官である羽柴秀吉が進撃してきた時代のころは、後世梟雄と評された宇喜多直家はすでに没し、嫡子秀家に代替し秀吉軍の先鋒として1万の兵を拠出、勇躍参陣していた。
万歳時記ー百閒川のいろどり25・水脈の音
 西大寺の裸祭りは過日終わった。
 後楽園の菰焼きは今日終わった。 
 だけど水はぬるまづ手をきるような冷たさ、枯草をせぎって刃をたてて流れている。
 春よこい、早くこい、頬にあたる風をあたたくしておくれ、ふくらんだ水音をきかせておくれ。
万歳時記ー旭川のいろどり34・半田山8
 白梅に春がわたる

 古代から日本人は白色に思いをこめていて、曰く清潔 清廉 潔白 純潔 清純 可憐 素など世俗の垢に染まらないイメージを重ねて憧れ敬ってきた。
 やがて、風がわたってきて花弁を散らすと、春のうごきが時計の針をすすめるようにやってきて色を染めにくる。 
万歳時記ー旭川のいろどり33・半田山7
 赤レンガ
 (旧配水池)

 自然の蒸れる景観のなかでこの色は異彩を放つ、そして特別のモニュメントのようで遊園のポイントになっている。
 新配水池は一段上の園地に設置されていて、円形の壁はやはり赤レンガで築造されている。
 
万歳時記ー吉備高原2・山野草2
万歳時記ー吉備高原2・山野草2
 セツブンソウ2

 中国地方の土質の多くは石灰岩で、長年の風化水浸により砕けては溶解をくりかえして奇形台地を形成してきた。結果的に現れたのは石灰岩塊に大小さまざまな洞穴を穿ち名のある鍾乳洞になって各所へ残ることになった。
 そのような石灰養分をキンポウゲ科の植物はとりわけ好物にしているようだ。その象徴植生がセツブンソウである。
万歳時記ー吉備高原1・山野草1
万歳時記ー吉備高原1・山野草1
 セツブンソウ

 節分の頃に開花するのでこの名がついたようだ。寒さにめっぽう強くて、大霜とか薄雪をなんのその、きれこみの深い葉を地上にのばして気温が高くなる午後に白い可憐な花を開く。曇天や雨天にはきまぐれはともかく、キンポウゲ科特有の性癖で唐傘を閉じたような状態でかたまり、待てどくらせどとてもじゃあないが愛想をしてくれない花だ。

 石灰岩質の山裾でやや傾斜のあるガラ地を好み、栗林や梅林、さては手入れのとどく墓地周辺では碁石を撒いたように繁生し、記憶を開陳すれば北面に多いように思う。また、四国ではみられないそうで瀬戸大橋を渡橋してわざわざ観賞にこられると聞く。
 
 山野草愛好家はこの開花を聞くといてもたってもいられなくてそわそわする。
万歳時記ー旭川のいろどり32・半田山6
万歳時記ー旭川のいろどり32・半田山6
万歳時記ー旭川のいろどり32・半田山6
 束の間の日光浴

 春の日射しはありがたい。
 園のはずれで猫は日光浴し、管理棟を見おろす高台は春の匂いを膨らました風が撫でていく。
 高層ビルが目立つようになった備前平野の市街は春薫の風が流れて穏やかに光っていた。

 はてさて、来週は西日本に何度めかの寒波が襲ってってくるようだ。

 あわせて春一番の風も吹くとか、この国の、正体のわからぬ経済を象徴した乱高下の余波だろうか。
万歳時記ー旭川のいろどり31・半田山6
万歳時記ー旭川のいろどり31・半田山6
万歳時記ー旭川のいろどり31・半田山6
 梅花立春
 
 春一番に咲く花といえば、山野草ならまず節分草、木片では梅の花が穏当なところ。
 
 息つきながら丘陵をのぼっていくと不機嫌な天候のなか梅林が点在しておもいがけず白梅がほほえんでくれた。
 ほんわかした温もりをおぼえる花である。  
万歳時記ー旭川のいろどり30・半田山5
万歳時記ー旭川のいろどり30・半田山5
万歳時記ー旭川のいろどり30・半田山5
 樹々面妖

 園内に3200種、15万本の樹木があるといわれる。
 老木もあれ若木もある。
 老木は桜、若木は花木という見分けの方も一理ある。
 古木の一幹が裂けて折れ、そこからキノコが繁生して異質の顔をなし、華やかな紅梅が古木の幹を借りて誇り、高山の森林限界の枝のように一方向に傾斜していたりして、妖しげな様態を演出をしている。
 生けることは不思議で二態とない。

万歳時記ー旭川のいろどり30・半田山7
万歳時記ー旭川のいろどり30・半田山7
万歳時記ー旭川のいろどり30・半田山7
 一本松古墳

 11万㎡に及ぶ園地はほぼ丘陵地で、頂上には前方後円墳がある。第二次大戦のさい此処へ高射砲をすえたとかで大きな穴があったりして、古墳の呈をなしていない。高札がなかったら小高い土盛りの痕跡ぐらいにしかおもえないのだが、そこへ立つとなるほど此処は頂上なのだと実感はできる。とくに前方部分は土砂がながれ崩れて築墳のよすがもない。春うらら毛氈を敷いて桜を愛でつつ幕の内をほうばったら、さぞかし旨かろうとは、思い描いた。

 しかしこんな立地に高射砲を設置すなどとは、どんな戦略だったのだろうか、そっちに興味がわいた。
万歳時記ー旭川のいろどり29・煙たつ5
万歳時記ー旭川のいろどり29・煙たつ5
 後楽園芝焼

 庭園はほぼ焼き終わり、唯心山の周りに賑わいが移ると、今までの空間はただ黒い絨毯のようにひろがり、潮がひくように誰もいなくなった。
 その景観は旧いものが滅び新しい生命を育てる交替の舞台である。
 2016年の春がやってくる。

万歳時記ー旭川のいろどり28・煙立つ4
万歳時記ー旭川のいろどり28・煙立つ4
万歳時記ー旭川のいろどり28・煙立つ4
 後楽園芝焼

 人は、煙りなどというと退避の声をあげて右往左往する、当然のことだ。ところが春を告げる行事となれば、なにやら有難さと珍しさで猛猛あがる煙にかけよってくる、舐めて奔る炎が人を誘引しているようで滑稽でもある。平和なのだ。 

万歳時記ー旭川のいろどり27・煙立つ3
万歳時記ー旭川のいろどり27・煙立つ3
万歳時記ー旭川のいろどり27・煙立つ3
 岡山後楽園芝焼き

 煙幕の向こうにいろんな人が透かしてみえる。そのほとんどの人は真剣な様子でカメラをかまえている。角度を変えてシャッターをきりたい衝動で狭い園遊路をうろうろされるのは、大いに迷惑だし他人にも同じ思いをあたえる。少々窮屈に肩をそばめ、煙にまかれても良し、寧ろ通常とちがうスクリーンになるのが面白い。
 

 
万歳時記ー旭川のいろどり26・煙立つ2
万歳時記ー旭川のいろどり26・煙立つ2
万歳時記ー旭川のいろどり26・煙立つ2
 岡山後楽園芝焼き

 枯れ芝にひそむ病害虫を駆除して、若芽を育み新葉をそろえるのに枯草を焼く作業は古来から行われている。
 若葉山、秋吉台、各地の放牧場では春先に野焼きの煙がたちのぼる。自然が一衣を脱ぐふくらみを感じるものだ。
 後楽園の芝焼きも同じこと。
 あたたかさを待ちわびている者は煙に触れたら、凝った肩がほぐれるような思いをさせてくれる行事だ。 

 
万歳時記ー旭川のいろどり25・煙立つ1
万歳時記ー旭川のいろどり25・煙立つ1
万歳時記ー旭川のいろどり25・煙立つ1
 岡山後楽園芝焼き

 暦の上では春をつげる節分の日、一年の節目としての恒例の行事。
 わんさとカメラマンがおしかけ特有の雰囲気を醸し出した。よくもこんなに集まるもんだと呟いたが、自分もその一人だった。
 
  

万歳時記ー旭川のいろどり24・半田山6
万歳時記ー旭川のいろどり24・半田山6
 椿二態

 椿は種類の多い花木。家庭の庭にも植栽されるが、散るときに花弁が舞い散らずに花冠ごとポトリとおちるのが人間の想いにそぐわず、忌み嫌われて避ける向きもある。
 一枝を茶室に活ける趣情は利休にはじまるらしい。


 

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