季のしずくー春編3・サンシュユ
 いっとき、サンシュユとサンショウの区別ができなかった頃があった。よく似た発音で、日常にさして必要にかられなかったせいもあるが受け流してすんでいた。ばら寿司をよく食べるようになって、香りの妙味に馴染んでこの香葉の有るのと無しでは随分ちがうことに気がつき、母親に尋ねると「お前が小さいときからうちのばら寿司には欠かせず載せているよ」と言われ、「はっ」と思いをあらためたものだ。
 サンシュユは「みずき科」でサンショウは「みかん科」、一方は低木落葉樹で後者は樹丈5メートルになる高木落葉樹、DNAが根本から違っていた。

 半田山植物園の西園路をあるいていくと、周囲を黄色に染めるほどの咲き誇るこの樹がある。小さなぼんぼりほどの花冠が小枝にびっしりついている。
 薬用植物といわれているが詳細を認識していない。
季のしずくー春編2
季のしずくー春編2
 春一番の花といえばセツブンソウとかユキワリイチゲ、フクジュソウの草花が思い浮かび、やがて年度の境界時期に桜の各種類が咲き始める。
 棚卸の行事が済んで、桜花の下で夜桜の宴を開くのが恒例の催事で、飲めば飲むほどに寒さが増すのである。いきおい街にくりだして身を温め御帰還とあいなる。
 
 半田山
 画像:ダイカンザクラ   
季のしずくー春編1
季のしずくー春編1
季のしずくー春編1
 季節は一向に落ちつかない。
 雲と寒波の襲来で春らしい「ほんわか」した日にめぐられないどころか、朝の膝射に誘われて野の草に遊んでいると、午後には黒い雲に覆われてやがて雨に遇い、体感温度がぐっと下がり冷たい日になってしまう。
 活発な新陳代謝ができた若き獅子(?)の年代のときはなんてことは無いズレであったのに、今やその落差の大きい気温に心身のリズムが狂いぱなしである。
 ところが自然の生命は愕くほど強靭なリズムである。地に双葉を吹き蕾をつけて花弁を開き、枝に蕾をはじくほどの勢いを魅せる。
 昨日(1日)、岡山後楽園の桜標準木に4~5輪の開化をみて開花宣言をした。週末に見ごろの繚乱になるだろう。
 
 半田山
 画像上:桜まつりぼんぼり 準備完了
 画像中:花ニラ
 画像下:こでまり若芽

 
葉がらー葉牡丹
 春はこんなに天候不順だったかなァ、と愚痴がでる。
 温い陽射しに嬉々としていると、午後からは重たい曇りがひろがる。寒い風はもがりぶえになって空をふるわす。スッキリした春は語り草になってしまったのだろうか。

 それでも春はノックして顔をのぞかせているのだ。野草が緑濃くなって小さなピンクの花を抱えている。辺りが鮮やかさを発散しだし、里山は茶褐色をぬぎすてて緑の薄絹を羽織っているようだ。
 
 庭の植えたままの葉牡丹が葉模様をアピールして、プランターの野菜をもまもっている。

 さてと、桜はまだかいな、その兆しでいいから、近くの公園やらお気にいりの山桜の匂いを嗅ぎにでかけたい。
古寺素描31ー本宮山円城寺10  (完)
古寺素描31ー本宮山円城寺10  (完)
 
【岸田吟香落書き】画像上
 日本最初の従軍記者として刻まれている吟香は14歳の時に志をたて、上京している。その時の気宇壮大な思いを勢いのある太字筆跡がしめしている。
 落款の「併和住人」の併和とは吟香が生まれ育った地名、棚田百選で有名なところである。

【宝篋印石塔】画像下
 重要美術県指定の石塔。昭和の解体修理のさい塔下に石室が発見され多くの仏像が納められていたそうだ。

【芭蕉句碑】
 本堂の東側、水中に弁財天祠を祀った池の北角、柿の大樹の下に建っている、高さ2mほぼ三角柱形の自然石の句碑。  「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり・はせを」
と、彫ってあり、文字はいずれも達筆で彫り込みも深い。
 芭蕉が当地を訪れたものではいのは明らか、さる雅人が芭蕉を偲んで建てたものだろう。


 画像上:岸田吟香落書き
 画像下:宝篋印石塔
古寺素描30-本宮山円城寺9
古寺素描30-本宮山円城寺9
 【提婆宮】
 本堂左奥の石段をあがる高台に社が鎮座している。渡り廊下をくぐってぬければ全体がよくみえる。神仏習合の立体的な証左の社である。神の使いは狐で部類の酒好きだそうだからそれとおもわせる酒の奉納が見受けられる。
 提婆は人間の表面にあらわれる磊落とはことなり、どちらかというと裏面に潜む怨み、呪いを鎮撫奉るのではないのかおものだが、詳しくはわからない。ものの本に提婆宮の神木に恨み釘を打つと恨みが薄れるという言い伝えがあり、映画かなにかでその現象を観た覚えがあって、おどろおどろしい想いが残っている。

 深夜の丑三つ時、死に装束で頭に蝋燭を巻き、怨みの相手の氏名・生年月日などを貼り付けた藁わら人形や似顔絵や写真を、頭をとばした五寸釘で神木の幹に打つ、というのだ。
おもうだに鳥肌がたち膝頭ががたがた哭く状況なのだが、見たくも有り見たくもないのが部外者のおもい、呪いをかける側からすればこの行為を他者に観られてはならない、観られたら願いはかなえられない、そして釘は手のひらで打ち込まなけねばならない、という守秘があるそうだ。
 おしまいの手のひらで五寸釘を打つというのは如何に考えても不可能である。であるから、いわば呪術という平常ではない世界の行為を未遂に終わらす約であるのではないのか。
 神仏の叶うところ、人間の懊悩を安らかに成せるのであれば、これは理に添うところである。

 10数年前、訪れたさい提婆宮の裏は杉の巨木が林立していてそこに呪い釘の説明板が有ったと思うが、今はない、しかも打たれた釘の痕もみられたものの、成長した樹皮に巻かれて今に辿ることはできない。


 画像上:珍種提婆宮
 画像下:提婆宮裏の森閑とした杉の巨木群
 
 

 









古寺素描29-本宮山円城寺8
古寺素描29-本宮山円城寺8
古寺素描29-本宮山円城寺8
 【本堂)
 山門直線に格式ある宗派の構えをした本堂が建立されている。裏堂が付属して境内のわりには豪壮さがみてとれる。説明文をみると移転当時は3~6倍の広さがあったそうでさもありなんと肯ける。
 直接風雨にさらされる材木は白けていて、正面に掲げられいる山号「本宮山」の扁額は横162cm縦90cmの欅板でことのほか白茶けて永い年月を重ねている。文字は備前五代藩主池田治政による揮毫だそうだ。
 外廊と堂内の格子天井には修復された鮮やかな極彩色絵が嵌められていて、見事なものというほかにない。図柄は花鳥風月である。
 建物は随所に天台造りを網羅しているとのこと、一見に如かずである。

 画像上:本堂全体
 画像中:池田治政揮毫扁額
 画像下;額彩色天井絵
 画像拡大:画像の上でクリックしてください
古寺素描28ー本宮山円城寺7
古寺素描28ー本宮山円城寺7
 【阿弥陀堂】
 唐の東晋に創建されたのが源で、日本では奈良・平安時代に浄土真宗が広まるにつれ建立が隆盛した。阿弥陀は大乗仏教のひとつで、もっとも有名なのは鎌倉大仏、観音阿弥陀如来で座像といわれているが浅学でなんとも解釈認識はおぼつかない。単に浄土真宗の本尊は阿弥陀様と聞いただけであって、世の煩悩悩事は自力では解決できなくて阿弥陀の信仰によるいわば他力本願に依ることが大と説く。
 浄土宗の法然から親鸞の浄土真宗へ枝分かれして一般民衆に隆盛ほこる宗教になるのだが、流れはわかるとしても教義にもとる意味を探るといよいよわからなくなるのである。

 円城寺の阿弥陀堂は白壁の、唐風のこじんまりした建物ですっきりしていた姿堂である。天保の失火で堂宇の建物はことごとく灰燼に帰したものの、阿弥陀堂はいち早く再建されたようで暫く本堂の役目を果たしたとのこと。
 軒に遠望の稜線が映り、山号に冠した本宮山の山並みが美しく連なっていた。

 画像上:阿弥陀堂 納骨堂を兼ねている
 画像下:軒下から本宮山方向を望む
 画像拡大:画像の上でクリックしてください
 
古寺素描27-本宮山円城寺6
古寺素描27-本宮山円城寺6
【鐘楼】
 山門入って右側に腰袴の鐘櫓が建っている。境内のわりに大層立派な構えで、寺院の格式を鼓舞しているようだ。
 参拝客が自由についても良いように立札があるが 段下の民家や郵便局が接しているので鐘を撞けば大抵の音ではなくなる。おそらく跳び上がるほどに耳朶をうつだろうとおもう。
 ところで大方の寺院では鐘楼の真向かいに経堂があるのだが、独立したものはここでは見当たらないのは時間をかけて探索すれば納得できる構造が得られるのかもしれないが。
 
  
古寺素描26-本宮山円城寺5
古寺素描26-本宮山円城寺5
【阿修羅】
 山門前に休憩所があって雪掻きの塊が軒下に寄せられていた。溶けだした滴りが石敷き道を濡らしていて、山門の荘厳さを醸していた。
 両脇の格子のなかは阿修羅の表情をした仁王像が朱く彩られていた。阿形、吽形はそれぞれ筋骨隆々の体を暗闇の空間で威嚇し、「仏敵」を門内に入れじとしているのだろう。 
 しかし、他院にみる仁王とはいささか雰囲気の様子が違う、どこかおどけているようだった。


 画像上:阿形  
 画像下:吽形
古寺素描25-本宮山円城寺4
古寺素描25-本宮山円城寺4

 【山門】
 鎌倉時代は本宮山で全焼のうきめにあった正法寺が円城に移転して名を円城寺としたことは前記に述べたが、そのご寺勢は檀家信徒はもとより地元大名の援護で隆盛を誇って14のの坊、6つの茉寺を周辺に擁して一大宗教j拠点を構成した規模になっていただろうとおもわせる雰囲気が、山の西面にまわって望むと今も残っている。見たところ平地がない、天に向かって拓けている山の斜面は気持ちがいいほど解放的で、仏教の匂いを漂わす建物がそれとわかる形で点在しているのだ。山奥の僻地でこのような景色は他にはない。
 昔日の災害といえば火災だろう、江戸時代門前町民家の失火で再び一部を残して全焼している。そのさい寺の什器、宝物の殆どが灰になった由。重厚な歴史に似づ鎌倉、平安時代の文化的な逸物が少ないのはたび重なる災害によることが多いのではないのか、と拝察するのだが、如何であろうか。
 
 駐車場から円城小学校の校門前を歩くと正面に堂々とした山門がみえる。この道の直線上に本堂がある。


 画像:残雪の円城寺山門
 画像拡大:画像上でクリックしてください
古寺素描24ー本宮山円城寺3
古寺素描24ー本宮山円城寺3

【珍品】
 円城といえば白菜がことに有名である。冬の盛りに入って収穫したものはよく巻いて太り、麓の道の駅広場にならべられた白菜の景観は圧巻である。正月用の野菜に、あるいは漬物用に、遠く岡山市内からの買い出しに賑わう。朝夕の寒暖の差が甘い味を濃くして逸品にしあげているのだろう。そればかりか今はやりの猪肉や、特有の風味があって山の味覚を彷彿させるクサギナという低灌木の若葉を干したものがある。それぞれ癖があって誰でもというわけにはいかないが山奥で終戦を体験した味覚には頬がゆるむ珍品だ。

 画像上:猪肉
 画像した:クサギナの木
 拡大画像:画像の上でクリックしてください
古寺素描23-本宮山円城寺2

 【残雪】
 門前町に薄雪が降った情緒は日本人しか味わうことができぬ、と思っている。小さな集落だが、なにせ山の頂上だから雪の降る予報に接すると四駆に冬用のタイヤを履いてでかけるのだが、十数年前の被写体を憧れるもなかなかおもうような状況になれない。無理のきかない身体は積雪の山並みのアップダウンに冒険ができない。深夜や早朝を避けると気の抜けたサイダ―の気分になるのも仕方がないものだ。
 シャーベト状の道路を駆け駐車場にすべりこむと、子供が遊んだあとで片隅に雪ダルマが溶けだしていた。  
古寺素描 22-本宮山円城寺 1
古寺素描 22-本宮山円城寺 1

 【移転の経緯】
 本宮山の山号がついていて、今ある据は本宮山ではない。
 建部から県道はいって紅葉落葉樹の山道をこいでいくと、民家にぶつかり、断りをして許可をもらい庭を通って小さい谷沿いに山頂をめざす。「マムシが多いから気をつけや」とおばさんの声に「ギョ」としたことである。頂上は平地になっていて礎石があり、小さな祠が祭祀されていた。天台宗、正法寺の痕跡である。行基菩薩が開基した古刹であったが駒倉中期(1282・弘安5年)に火災があり全焼し、その機に円城に移転している。 
 名称を改め本宮山観音院円城寺になっている。
 本尊は千手観音菩薩、裏手に提婆宮が祀られ、神仏習合になっていて近隣に多くの信仰をあつめている。

 画像:円城寺門前町 積雪を見込んで出かけたが軒下に雪かきのあとしかみられなかった。

晩秋と初冬のはざま 4-後楽園 4 (終)
晩秋と初冬のはざま 4-後楽園 4 (終)
 外苑の散歩道は紅の絵の具がふりかかっていた
 季節の絵筆はキャンバスの上で舞って
 やがて散る 
 いっときの鮮やかさ  
 散り際のいざぎよさ 

晩秋と初冬のはざま 3-後楽園 3
晩秋と初冬のはざま 3-後楽園 3
晩秋と初冬のはざま 3-後楽園 3
 庭園に定石の演出があるが、一般受けはしないのでひっそり肩を張っている。
 ひとつは陰陽石
 ふたつは曲水
 造園家からしたらなくてはならない造作らしい。
 その日は老齢の夫婦が画材を開げて鉛筆をはしらせていた。
 枯葉を散らした枝間の城郭がしばしの風景を覗いていた。
晩秋と初冬のはざま 2-後楽園 2
晩秋と初冬のはざま 2-後楽園 2
 後楽園は成り立ちからいううと、「公園」ではなく、池田家所有の個人の「庭園」であった。それを明治維新を機に地方行政に譲渡移籍し、個人の運営管理権を手放した経緯があり、多くの江戸時代遺産の大名庭園はこの径路をたどっている。なにせ広大な空間は無産の特権を旨とする身にはとてもかなわぬ固定資産になりはてて崩壊し税金がもろに付加されたのだから城郭から庭園にかかるとんでもない課税を賄える道理がない。農民から徴収する石高に頼っていて、維新の改革はその収入の鎖に大鉈をもってたちきったものであるから、特段産業をもたない素寒貧の大名に支払えるものではなくなった。いいかえれば「庭園」は前時代の「遺産]である。
 庶民が箱庭をつくり盆栽庭園で洒落っ気を楽しむのとわけがちがう。多数の家臣にとりかこまれ監視され味気ない
間仕切りの空間で鬱々とした身をおくことをたまさかには放恣さながらの解放感に憧れるのはやぶさかではない、だから遊園式庭園がことさら大名にとりいれられたのだろう、と勝手に推測する。
 遊園式庭園は読んで字のごとし、広いs敷地にそれぞれの区画に趣のある造園の工夫があり回遊し楽しむのである。したがって縦長い増築物は無用で、平面的な変化があればいいのである。
 真逆が庶民の庭はせまい処に一点に座って眺めるのであるから立体的な造作が必要だ。
 折に触れ大名庭園を散策すると、つくずく歴史の為政の成せる業をかみしめるのである。
晩秋と初冬のはざま 1-後楽園 1
晩秋と初冬のはざま 1-後楽園 1
晩秋と初冬のはざま 1-後楽園 1
 12月は訪れる人の少ない季節。閑静に鎮んだ園をそぞろ歩き、秋味を探索しながら冬の風に襟をたてて茫洋さの濃淡を観ているのも乙なものである、しかしながら、ときおり摺れ違う小団体のハングル会話には世の移ろいを感じるようになった。

 緑繁るころは川越え隣接する岡山城を探すのにもなかなかすっきりした楼閣がみえないのだが、樹間の葉が落ちた晩秋の景観はあちこちで天守閣が枝間に絡まってみえる。

 茶祖堂 別名:利休堂
 園の隅にひっそりと建つ。竹囲いのなかに忘れられたような建物だが紅葉がやけに対比している。茶道を岡山に定着させた栄西禅師を記念したもので、同師を冠した茶の会が毎年延養亭でひらかれている。幕末の池田藩家老の建屋を移築したそうだが先の戦火で焼失、戦後再建したもの。

 流店近くの水路
 水辺に僅かな草紅葉をみつけて蹲っていれば安らぎが得られる。

 

  

空と雲と花と 4ー伊吹山のリンドウ
 伊吹山のものが特別の種別ではないにせよ、晩秋の高山に少なく咲く花ほどいじらしい可憐さが漂う。
 里山にみられるリンドウはスラリとした茎高美形である。
 高山は風雪にたたかれてずんぐりむっくりと逞しく株を張る。
 どちらも風情があり武士の凛とした趣がある。
 そういえば、源氏の家紋がリンドウ(笹竜胆)であった。
 

愛犬バロン 2ー冬の窓辺にて-2
 やあー みんな
 この冬いちばんの寒波襲来だそうだ
 だけどおいらは一向にかまやしない
 木枯らしがおいら背中で毛ぴゆーと鳴いても
 どってこたあない
 もがりぶえが電線をいたぶって鳴いても
 おいでおいでと誘われているようなもんなんだ
 あっちをくんくん こっちをくんくん
 におい嗅いでしっこをかけて
 悲鳴をあげるご主人さまをひっぱって
 さざんかの咲いている小径を
 ゴーイングマイウェイ 
 走りぬけるおいらなのさ

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 >