古寺探訪66ー海龍王寺ー奈良
2018年5月16日 エッセイ
海龍王寺は藤原不比等の邸に建立された。
藤原一族の菩提寺は興福寺であるが、海龍王寺は光明皇后の発願、伝玄昉の開基となっており、興福寺の公寺とちがって邸内に建てられた藤原氏の私寺の位置にある。
養老4年(720年)の不比等の死後、邸宅は娘の光明皇后が相続して皇后宮となり、天平17年(745年)にはこれが宮寺(のちの法華寺)となった。敷地の東北隅に建てられたことから隅寺の別称あって法華寺に隣接していて、当時は知らないが今はひらいて両所出入りができるようになっている。
海の龍とはおどろしい偶像の海生物である。唐の匂いがふんぷんとする、日本の宗教に馴染まない響きがするようだが、真言宗にはこの語句の経があるそうだが凡人には定かでない。
中国唐の時代、文化の交易が盛んに行われ遣唐使の制度が有り仏教はもちろん多様な学問を学び持ち帰ってきた。その論でゆけば、中世の大陸文化は大和の土壌に奇しくも新芽を育てたといえるだろう。ただし近代の大陸ではありえない。
遣唐使として唐に渡り修業した玄昉が帰国途上で暴風に遭い種子島に漂着したさい、船中で海龍王経を一心に唱えて救われたといわれ、海龍王寺の名はこの経文に因んだものといわれている。真言律宗が宗派、本尊十一面観音立像である。春と秋の特別拝観時のみ開帳される。
画像上:金堂
画像中:十一面観音立像
画像下:五重小塔
(平成30年3月8日 探訪)
藤原一族の菩提寺は興福寺であるが、海龍王寺は光明皇后の発願、伝玄昉の開基となっており、興福寺の公寺とちがって邸内に建てられた藤原氏の私寺の位置にある。
養老4年(720年)の不比等の死後、邸宅は娘の光明皇后が相続して皇后宮となり、天平17年(745年)にはこれが宮寺(のちの法華寺)となった。敷地の東北隅に建てられたことから隅寺の別称あって法華寺に隣接していて、当時は知らないが今はひらいて両所出入りができるようになっている。
海の龍とはおどろしい偶像の海生物である。唐の匂いがふんぷんとする、日本の宗教に馴染まない響きがするようだが、真言宗にはこの語句の経があるそうだが凡人には定かでない。
中国唐の時代、文化の交易が盛んに行われ遣唐使の制度が有り仏教はもちろん多様な学問を学び持ち帰ってきた。その論でゆけば、中世の大陸文化は大和の土壌に奇しくも新芽を育てたといえるだろう。ただし近代の大陸ではありえない。
遣唐使として唐に渡り修業した玄昉が帰国途上で暴風に遭い種子島に漂着したさい、船中で海龍王経を一心に唱えて救われたといわれ、海龍王寺の名はこの経文に因んだものといわれている。真言律宗が宗派、本尊十一面観音立像である。春と秋の特別拝観時のみ開帳される。
画像上:金堂
画像中:十一面観音立像
画像下:五重小塔
(平成30年3月8日 探訪)
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