古寺素描21-能勢妙見山②完
2018年1月3日 エッセイ
能勢妙見山は真如寺(関西身延)の境外仏堂といわれ、境外仏堂とは飛地境内にある仏堂の意味合いの位にあることだが、参詣者の多寡からみると本寺よりはるかに賑わっているらしい。江戸時代の戯作者・近松門左衛門も熱心な信者とのことで花柳界、芸能界に信仰があった。それも、妙なる姿=美しい姿という寺名から流れたものらしい。
歴史をめくるともっと面白い。ここはクラブの資料から引用しておきたい。
『・・山頂には行基の建立といわれる為樂山大空寺があったが、鎌倉時代に入ると源頼国(源頼光の長男)を祖とする能勢氏が領主となり、この地に妙見菩薩を祀ったとされる。安土桃山時代に領主であった能勢頼次が、本能寺の変で明智光秀に加担したために領土を失ったが、徳川家康の家臣となり関ヶ原の戦いで活躍したことにより、能勢の地を領地として宛がわれ、旗本として能勢氏を再興した。頼次は日蓮宗の日乾(後に身延山久遠寺二十一世)に帰依し、自らが開いた真如寺の開山とした。慶長8年(1603年)には日乾の手によって新たな妙見菩薩が彫られ、大空寺の址である所に仏堂を建立して祀った。これが現在の能勢妙見山である。』
権力と宗教が表裏で張り合わせになっている史実を、隙間からうかがうことができる。(権威は権力より上段にある)
脆弱の脚に鞭うって集団の最後尾をよろよろと降りた。もっともこんな天候だから、他の参詣人には出会うことはなかった。
歴史をめくるともっと面白い。ここはクラブの資料から引用しておきたい。
『・・山頂には行基の建立といわれる為樂山大空寺があったが、鎌倉時代に入ると源頼国(源頼光の長男)を祖とする能勢氏が領主となり、この地に妙見菩薩を祀ったとされる。安土桃山時代に領主であった能勢頼次が、本能寺の変で明智光秀に加担したために領土を失ったが、徳川家康の家臣となり関ヶ原の戦いで活躍したことにより、能勢の地を領地として宛がわれ、旗本として能勢氏を再興した。頼次は日蓮宗の日乾(後に身延山久遠寺二十一世)に帰依し、自らが開いた真如寺の開山とした。慶長8年(1603年)には日乾の手によって新たな妙見菩薩が彫られ、大空寺の址である所に仏堂を建立して祀った。これが現在の能勢妙見山である。』
権力と宗教が表裏で張り合わせになっている史実を、隙間からうかがうことができる。(権威は権力より上段にある)
脆弱の脚に鞭うって集団の最後尾をよろよろと降りた。もっともこんな天候だから、他の参詣人には出会うことはなかった。
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