古寺素描53-薬師寺④-金堂「本堂」
2017年9月17日 エッセイ
本尊を安置している伽藍を本堂というのが一番身近だが、仏殿とか金堂とか別称の言葉で敬うのが古都の地では多い。いかにも華やかで尊厳のひびきをするが、やはり本堂といったほうが古めかしく落ちつきがあるような気がする。されど、別の価値感で解釈するとなると、金ぴかでしかも巨仏であればあるほど、かててくわえて権利権威の謂れがあればこそ金堂といったほうが言葉の響きと求心力をあつめて民を驚愕させ、ゆるぎない信仰を集めるるのに相応しいのかもしれない。宗教も人間の性を引きずっているからであろう。
大門くぐって直線上に本堂があり、その奥に塔があるのが宗派によっては決められた配置になっているが、ここ薬師寺では金堂の東西に仏舎利を祀る二基の塔が脇を固めて建っている。詳細はわからないが珍しい配置である。
享禄元年(1528)この地域の豪族・筒井順興の戦火に巻きこまれ、西塔などと共に焼け落ちた。その後、豊臣家が金堂の仮堂を建て、その後本格的な金堂の再建に取りかかる筈だったが、豊臣家滅亡などの事情で400年近く仮堂のままであった。金堂の再建は歴代の薬師寺住職にとって悲願を伝え昭和42年(1967)高田好胤師が晋山し、百万巻写経勧進による金堂再建を提唱、全国に写経勧進に歩き、その結果昭和46年(1971)金堂の起工式を行い、そして昭和51年(1976)4月に白鳳時代様式の本格的な金堂として復興している。
大門くぐって直線上に本堂があり、その奥に塔があるのが宗派によっては決められた配置になっているが、ここ薬師寺では金堂の東西に仏舎利を祀る二基の塔が脇を固めて建っている。詳細はわからないが珍しい配置である。
享禄元年(1528)この地域の豪族・筒井順興の戦火に巻きこまれ、西塔などと共に焼け落ちた。その後、豊臣家が金堂の仮堂を建て、その後本格的な金堂の再建に取りかかる筈だったが、豊臣家滅亡などの事情で400年近く仮堂のままであった。金堂の再建は歴代の薬師寺住職にとって悲願を伝え昭和42年(1967)高田好胤師が晋山し、百万巻写経勧進による金堂再建を提唱、全国に写経勧進に歩き、その結果昭和46年(1971)金堂の起工式を行い、そして昭和51年(1976)4月に白鳳時代様式の本格的な金堂として復興している。
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