古寺素描7-備中国分寺4
2016年10月14日 エッセイ
「創建・再興」
建武3 (1336) 年から明徳3 (92) 年までの 57年間にわたり
.皇統の分裂抗争(南北朝)は続いたのである。
前頁のごとく一地方といえども吉備国の一画地を焼失させ、わけても備中国分寺・国分尼寺の損失は文化的に大きな禍いである。(焼失・落雷との両説があるが此処では焼失説を択んだ)
天平の時代は朝廷内の後継をめぐって事変が幾度も頻発、巷間では疫病が蔓延していた。なにかにつけ仏教に狂奔していた時代だから光明皇后の助言もあったろう、聖武天皇は国家鎮護のため天平741年(天平13)、全国に国分寺と国分尼寺の両寺院建立を命じた。明らかな創建年は不詳だが、ものの資料によると備中国分寺の創建は800年代後半になっている。
創建時の寺域は東西160m、南北180mとなっている。さらに聖武天皇は七重塔の建立を命じたようで、焼失したのは実は七重塔だったということになる。仏心を魅入らせる塔はひときわ聳えて旧山陽道を往来する人々を癒したのである。其れだけに、焼失そのときの吉備路は天を焦がすような火焔につつまれたことだったろう。
仏教の衰微もあり国分寺の再興は1710年(宝永7年)に着手、その後10年の歳月をかけ当初より規模縮小し、領主・浅尾陣屋の蒔田氏(1万石)の援助を受けて僧院を完成している。元ある寺領にすっぽり嵌るかたちが現在の寺院の姿である。もっとも天正年間に高松城主・清水宗治が再興している記述があるが衰微とある。
五重塔の再建はそれよりさらに遅く1821年(文政4)に着手、江戸時代末期1844年の(弘化1)に完成している。じつに20年を経る工事期間だ。
また近年では、1990年(平成2)~1993年(平成5)に解体修理を行っている。
建武3 (1336) 年から明徳3 (92) 年までの 57年間にわたり
.皇統の分裂抗争(南北朝)は続いたのである。
前頁のごとく一地方といえども吉備国の一画地を焼失させ、わけても備中国分寺・国分尼寺の損失は文化的に大きな禍いである。(焼失・落雷との両説があるが此処では焼失説を択んだ)
天平の時代は朝廷内の後継をめぐって事変が幾度も頻発、巷間では疫病が蔓延していた。なにかにつけ仏教に狂奔していた時代だから光明皇后の助言もあったろう、聖武天皇は国家鎮護のため天平741年(天平13)、全国に国分寺と国分尼寺の両寺院建立を命じた。明らかな創建年は不詳だが、ものの資料によると備中国分寺の創建は800年代後半になっている。
創建時の寺域は東西160m、南北180mとなっている。さらに聖武天皇は七重塔の建立を命じたようで、焼失したのは実は七重塔だったということになる。仏心を魅入らせる塔はひときわ聳えて旧山陽道を往来する人々を癒したのである。其れだけに、焼失そのときの吉備路は天を焦がすような火焔につつまれたことだったろう。
仏教の衰微もあり国分寺の再興は1710年(宝永7年)に着手、その後10年の歳月をかけ当初より規模縮小し、領主・浅尾陣屋の蒔田氏(1万石)の援助を受けて僧院を完成している。元ある寺領にすっぽり嵌るかたちが現在の寺院の姿である。もっとも天正年間に高松城主・清水宗治が再興している記述があるが衰微とある。
五重塔の再建はそれよりさらに遅く1821年(文政4)に着手、江戸時代末期1844年の(弘化1)に完成している。じつに20年を経る工事期間だ。
また近年では、1990年(平成2)~1993年(平成5)に解体修理を行っている。
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