古寺素描6-備中国分寺3
2016年10月10日 エッセイ 「焼乱」
福山は総社と倉敷の境界を成していて、標高302.4mの里山だが連なる稜線からはひときわ抜き出ている。いくつもの登山口がある。
南麓(倉敷側)にある安養寺の境内からのもその一つ。神仏習合の寺院で特大の毘沙門天像が目をひく山門をくぐり、境内奥の粗朶道を採り、途中の果樹園を横手にみてゆっくり登れば1時間弱で頂上に着くのが、、、、およそ10年前に登山したときのおぼろな記憶である。平たくなった頂上に城郭をしめすような構造物は一切ないが礎石とか墓標ごときものが散在していた。南北朝の戦いの福山合戦は此処で戦端を切ったのである。
後醍醐天皇側の新田、楠、北畠勢に敗れた足利尊氏は京都墜ちし九州にのがれていたが、西国の兵を集めて勢力を増して東上を図り、尊氏は海路、弟の直義は陸路にわかれての行軍は岡山にさしかかり、2万の大軍で、新田義貞の武将・大井田氏経が奪取して立て籠もっていた福山城を攻めた。
士気高い大井田軍は果敢に応戦、もてあました足利側は浅原峠から篝火を盛んに燃やして敵方の戦意を挫こうとしたのだが城方はそれに増して篝火を焚きつけて応戦、しかるに麓の民家を巻きこんで盆地を火の海にした。つまるところ、聖武天皇の国家鎮護と民の安寧をこめて建立された備中国分寺、国分尼寺はこの戦火で灰燼に帰したのである。
余分だが、勝利した足利勢はこのあと南軍を追い詰め、灘の湊川神社にて楠正成を自裁させている。
福山は総社と倉敷の境界を成していて、標高302.4mの里山だが連なる稜線からはひときわ抜き出ている。いくつもの登山口がある。
南麓(倉敷側)にある安養寺の境内からのもその一つ。神仏習合の寺院で特大の毘沙門天像が目をひく山門をくぐり、境内奥の粗朶道を採り、途中の果樹園を横手にみてゆっくり登れば1時間弱で頂上に着くのが、、、、およそ10年前に登山したときのおぼろな記憶である。平たくなった頂上に城郭をしめすような構造物は一切ないが礎石とか墓標ごときものが散在していた。南北朝の戦いの福山合戦は此処で戦端を切ったのである。
後醍醐天皇側の新田、楠、北畠勢に敗れた足利尊氏は京都墜ちし九州にのがれていたが、西国の兵を集めて勢力を増して東上を図り、尊氏は海路、弟の直義は陸路にわかれての行軍は岡山にさしかかり、2万の大軍で、新田義貞の武将・大井田氏経が奪取して立て籠もっていた福山城を攻めた。
士気高い大井田軍は果敢に応戦、もてあました足利側は浅原峠から篝火を盛んに燃やして敵方の戦意を挫こうとしたのだが城方はそれに増して篝火を焚きつけて応戦、しかるに麓の民家を巻きこんで盆地を火の海にした。つまるところ、聖武天皇の国家鎮護と民の安寧をこめて建立された備中国分寺、国分尼寺はこの戦火で灰燼に帰したのである。
余分だが、勝利した足利勢はこのあと南軍を追い詰め、灘の湊川神社にて楠正成を自裁させている。
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