百閒川のいろどり50-荒手(越流堤)2
 低地を求めて流れる水は、もともと備前平野の低湿地帯であった旭東地区(旭川より東)を網の目のような流路を成していた。洪水のたびにこの地域の家屋田畑は水害に遭っていた。城の防備とはいえ、自然に逆らった蛇行の付け替え施策によって旭川の流路は大きくかわったことで救済されたが、反面、三野あたりからほぼ直線的に城下の堤防をめざす流れは洪水のさい氾濫時、蛇行した堤を洗って決壊きたし城下町を濁流の災禍にまきこんだ。わけても1654年(承応4年)の大洪水は城下を壊滅的にさせたことが史実に記録されている。
 当時の絵図をみると、南下した流路は今の市民会館あたりで直角に東へ走り、再び北へ向かいさらに東へながれている。いわば一画が凹の状態になっており溜まりの様相を呈している。濁流は一時流速を抑えられ溜まりの凹で溢れ石関の堤を越え城下にながれこんだのである。
 このとき熊沢蕃山は城主池田光政に召しだされ補佐役だった。
 

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