百閒川のいろどり49ー荒手(越流堤)1
2016年9月5日 エッセイ
まず、横道に逸れるが百閒川の経緯をザックリつかむことにしたい。
百閒川は旭川の放水路につきる。
旭川氾濫のもっとも大きな要因は岡山城築城の際の土木工事にあるようだ。備前平野に天神山、石山、岡山の小高い丘があった、というより、現存している。
駅前の桃太郎道路から城下交差点につきあたって望見するとその地形がよくわかる。+形交差点の東、北とも緩い勾配でせり上がっているのが山地への道であったことが一目瞭然である。東への頂点が石山、そして岡山、北へは天神山への上り坂である。古来の城は石山台にあって宇喜多直家の時代まで其処に存続していた。中国制覇のとき豊臣秀吉の検分で隣の岡山台への移築を助言受けることになった。城造りに天分のある秀吉が示す通りに、8年(1590~1598)かけて築城したのが現今の城郭で、天守閣の立地がズレているが当時の外郭は再現したものである。典型的な平城でありながら天守閣はいびつで、張り出ている左面と切り落とされたように右面は垂直になっているのは異様としか映らない。専門家にはそれなりの所以があろうとおもうが、素人には判然としない、単に敵が攻めてきた場合左は防御に強く右は脆弱すぎるではないかと安直に考える。
されば、と考えたかどうかはしらないが、竜之口南麓をかすめて浜、森下を経由し京橋付近にあった旭川の流路を戦略的に鑑み、直線に南下させ城石を舐めるように楕廻させるべく流れをつけかえたのが現今の旭川である。
天然の外堀にしたのである。
画像:裏面の岡山城 月見橋からみているので文中の左右表現とは真逆 築城当時との天守閣位置ズレであえて東西南北の表現は使わなかった。
百閒川は旭川の放水路につきる。
旭川氾濫のもっとも大きな要因は岡山城築城の際の土木工事にあるようだ。備前平野に天神山、石山、岡山の小高い丘があった、というより、現存している。
駅前の桃太郎道路から城下交差点につきあたって望見するとその地形がよくわかる。+形交差点の東、北とも緩い勾配でせり上がっているのが山地への道であったことが一目瞭然である。東への頂点が石山、そして岡山、北へは天神山への上り坂である。古来の城は石山台にあって宇喜多直家の時代まで其処に存続していた。中国制覇のとき豊臣秀吉の検分で隣の岡山台への移築を助言受けることになった。城造りに天分のある秀吉が示す通りに、8年(1590~1598)かけて築城したのが現今の城郭で、天守閣の立地がズレているが当時の外郭は再現したものである。典型的な平城でありながら天守閣はいびつで、張り出ている左面と切り落とされたように右面は垂直になっているのは異様としか映らない。専門家にはそれなりの所以があろうとおもうが、素人には判然としない、単に敵が攻めてきた場合左は防御に強く右は脆弱すぎるではないかと安直に考える。
されば、と考えたかどうかはしらないが、竜之口南麓をかすめて浜、森下を経由し京橋付近にあった旭川の流路を戦略的に鑑み、直線に南下させ城石を舐めるように楕廻させるべく流れをつけかえたのが現今の旭川である。
天然の外堀にしたのである。
画像:裏面の岡山城 月見橋からみているので文中の左右表現とは真逆 築城当時との天守閣位置ズレであえて東西南北の表現は使わなかった。
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