古寺素描3-紀州根来寺3(完) 
古寺素描3-紀州根来寺3(完) 
 平安から室町、戦国時代にかけて門跡寺院が確立されている。
、聞きなれているところでは天台宗延暦寺・法相宗興福寺が筆頭で天皇や摂関(藤原氏)の子弟が門跡に降りていて(現でいえば高級官僚の天下り先で富者相手の宗教)、それだけに朝廷との由縁は強固で保護と勢力拡張は顕著だった。形はどうあれ庶民の生活はおいてけぼり時代である。当時の寺社(社では春日大社・諏訪大社など)は多かれ少なかれ中央や地方の大名の庇護はあったようだ。その格差の狭間をかいくぐり、浄土宗法然・浄土真宗親鸞・日蓮宗日蓮の庶民派の台頭を呼ぶ図式になった。
 奢った寺院の手段はいきつくところ独立した自己防衛の構築で、並みの大名以上の武力を擁しその行使を恃んだ、僧兵の登場である、たとえ僧という名があっても彼らは正式な僧ではない、なべて弁慶のような格好であるが教義がわかってる訳ではない。
 恰も酒池肉林に化していた天台宗比叡山など、叡山に不利なことがあれば神輿を担いで京都の街にあらわれ傲慢にも天皇に直訴し、有利な方向にねじまげることを繰り返したほどである。朝倉浅井征伐のときの織田信長は敵方をかくまった叡山の反抗に業を煮やし全山を焼き払ったのも、宗教の傲慢と堕落の果てである。
 真言宗高野山でも然り。
 したがって新義真言宗の根来寺もしかり。
 長承元年、鳥羽上皇の庇護を受けた覚鑁(のち興教大師)は高野山内の紛争で一門の拠点を焼打ちされ高野山を下山、近郊の岡田、山東、弘田、山崎の荘園と豊福寺(のちの根来寺)を賜り以後隆盛を誇るようになった。室町時代末期、坊舎2700、僧兵数万人をかぞえたそうで、信長没後の覇権争いの豊臣秀吉対徳川家康・織田信雄の戦いでは徳川側に味方して岸和田城を襲ったりはては摂津への侵攻をはかり大名ばりの武闘をおこなった。如何な宗教にも通じるのは、立派な開祖にして崇高な理念は後々の累代になればなるほど飛翔のように彼方へとんで消えてしまうようだ。かてて加えて種子島から鉄砲を持ちかえったのは根来寺の僧徒でかれらによって増産され、飛び道具で武装化し有名な石山合戦では雑賀衆の鉄砲隊を組織して織田信長に味方している。
 天正13年に、分限を超え一大勢力になった根来寺を危惧した豊臣秀吉が紀州攻めをおこない、大師堂、大塔を残してほとんどの僧堂を消失したが、これには多説あり定説の証がない。鉄砲の弾跡といわれた箇所をみたけれど、もっともな痕跡であったが、当時鉄砲を使用した攻防はなかったらしく後世のつくり話のようだ。
 それにしても紀州というところは平城・平安・浪花に近いせいか世俗の垢にまみれた希有な古寺がまことに多い。 
 
 
  

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