吉井川のいろどり5ー閘門5-灌漑運河2
 水難はいつの時代でも災害をもたらした。
 氾濫した洪水が家屋田畑を呑みこむと生活そのものを破壊した。中世から江戸時代にわたり岡山は河川の災害が顕著だった。特に、宇喜多家が豊臣秀吉の助言により旭川の流れを城の防護のため城下につけかえたことによる氾濫時の水害は甚大なもので、住民は困窮きわまり、岡山藩は池田初期慢性化した赤字財政に苦しんだ。当時の流通経済は米づくりが基盤でなりたち米の欠乏はたちまち窮乏をもたらした。
 可及速やかな対策は米の増産しかない。三代藩主池田光政は新田開発に着眼、旭川河口の平井から吉井川河口の金岡あたりまで新田開発が可能かどうか、明暦3(1657)年役人に調査を命じている。このあたりは両川河口の広い州浜(干潟)だった。役人の提出した干拓絵図をみた綱吉は、新田開発にもっとも必要とされる水源確保に目途がたたずにあるため、この事業案をやむなく断念している。

*画像 吉井川河畔
 ガードレールのあるところが右岸で閘門ー倉安川の吉井水 門。今はコンクリートで改修封鎖されていて吉井川側にはその痕跡はなくなっている。右にこんこりした杜がみえるのが福岡城跡。左の街郭は備前長船町。

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