吉井川のいろどり2-閘門2
2016年6月4日 エッセイ
資料をめくると、江戸が一大消費都市で栄えたのは高瀬舟の便が発達していたからという一文がある。
趣意は栃木の鬼怒川上流から利根川へ帆船(高瀬舟)が行き交い江戸の街へ生活物資をはこびこんで需要をうるおした、ということであろう。あらためて、河川と人間との関りあいは飲水のみあらず都市形成の基盤を支えていたことを認識するのである。
高瀬舟が発達し活躍したのは江戸時代になるが、発祥したのは室町時代までさかのぼるようだ。このころは長距離運送までいかなくて、ごく近辺の用を達してこと足れりであっただろうが、そのうち河口のデルタ地帯に人口が集結し需要が勃発すれば比例して十分な供給の便を構築しなけねばならず、おのずから改良の高瀬舟を運行させたのであろう。
吉井川、旭川、高梁川の岡山三大河川も御多聞にもれず中世から高瀬舟が煩多に往来して物資を供給していた。河川の流れ川幅など現代の川相とは比較できないほど原始で不整備であったろうことは想像にかたくない。ことに風眉には富んでいるものの奇岩巨石が川面にのぞく高梁川は中流域まで白波たてて岩を噛む渓流相で、さぞかし難多く舟材に工作がいっただろうと想うし、比較的ゆったり蛇行する旭川、吉井川にしても相応の苦行があったことは想うにむずかしくない。
運行の遺跡として旭川は勝山、吉井川は津山に発着場の痕跡がのこっている。さらに本流を支流として曳き込んで運河をつくり高瀬舟を誘導、供給の効率化をはかるばかりか原野を開墾開拓して肥沃な耕作地に転じさせ豊穣をもたらす事業を興すことにもなった。そこで生じた水位の差を操作する施工技術が必要になってくる。
「閘門」という調整施設を可能したのが池田光政・綱政ー津田永忠の施政者ー奉行のラインだ。
今もその施設が吉井川に現存している。
趣意は栃木の鬼怒川上流から利根川へ帆船(高瀬舟)が行き交い江戸の街へ生活物資をはこびこんで需要をうるおした、ということであろう。あらためて、河川と人間との関りあいは飲水のみあらず都市形成の基盤を支えていたことを認識するのである。
高瀬舟が発達し活躍したのは江戸時代になるが、発祥したのは室町時代までさかのぼるようだ。このころは長距離運送までいかなくて、ごく近辺の用を達してこと足れりであっただろうが、そのうち河口のデルタ地帯に人口が集結し需要が勃発すれば比例して十分な供給の便を構築しなけねばならず、おのずから改良の高瀬舟を運行させたのであろう。
吉井川、旭川、高梁川の岡山三大河川も御多聞にもれず中世から高瀬舟が煩多に往来して物資を供給していた。河川の流れ川幅など現代の川相とは比較できないほど原始で不整備であったろうことは想像にかたくない。ことに風眉には富んでいるものの奇岩巨石が川面にのぞく高梁川は中流域まで白波たてて岩を噛む渓流相で、さぞかし難多く舟材に工作がいっただろうと想うし、比較的ゆったり蛇行する旭川、吉井川にしても相応の苦行があったことは想うにむずかしくない。
運行の遺跡として旭川は勝山、吉井川は津山に発着場の痕跡がのこっている。さらに本流を支流として曳き込んで運河をつくり高瀬舟を誘導、供給の効率化をはかるばかりか原野を開墾開拓して肥沃な耕作地に転じさせ豊穣をもたらす事業を興すことにもなった。そこで生じた水位の差を操作する施工技術が必要になってくる。
「閘門」という調整施設を可能したのが池田光政・綱政ー津田永忠の施政者ー奉行のラインだ。
今もその施設が吉井川に現存している。
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