吉備路のいろどり8-備中高松城8
2016年3月16日 連載
後手・兵どもの夢があと7-2、3、4、5、6、7、8
毛利側の動勢はというと、天正10年3月15日に秀吉が2万の軍勢で中国制覇にのりだしたとき、あるいはその以前の信長が秀吉に指令を発した段階で意を通じた大阪京都の商人が放った早飛脚により情報を手中したと思うのに、迎撃体制にふにおちない一局面の手当てだけで済ましているのだ。いわく、小早川軍の一武将・末近信賀の隊を援軍に送り込んだのだが、応援隊をそのまま高松城内に採りいれ、城内の総勢5500人の規模に膨らましのは、外郭干戈戦を捨て沼地を最大限自負しての、はなから籠城作戦をとったのがうかがえる。
寄せ手秀吉の陣構えからみて正攻法の仕掛けは不可能とみて長期戦をえらんだのだろうが、一見籠城側が有利と踏んだのはあくまでも地の利、溢れんばかりの兵数をかかえての籠城は長期になればなるほど食料枯渇の弱点をろていする。かててくわえて大軍をまえにしてとても勝てないと判断したら城兵の士気は著しく萎える。たとえば秀吉が鳥取城を水攻めして兵糧を断ったときの城方は惨憺たる叫喚におちいりあげくに陥落している。状況を把握した毛利輝元は清水宗治あてに、支援できないから「降伏」をうながしたのであるが、宗治は拒絶した。
足守川の堤防を築く前に、なぜ毛利軍は一部隊ではなく大軍を派遣して迎撃しなかったのか。もろもろの要素が介在していていたようだが、腰のひけた軍略はのちのちの展開に後手を及ぼした。
水攻めは奇略である。発案は黒田官兵衛、長さ約4㎞、高さ8m、底部24m、上幅12mの堤防施工の旗振り奉行には蜂須賀正勝が任命され、実際の工事は秀吉幕下、宇喜多衆、但馬衆が区画分担して完成させた。近隣の住民に土俵一俵に銭100文、または米一升で買い上げ、築堤の人夫には高賃金での土工作業を督励した。上幅12mなどは軍馬がゆるゆる闊歩できるほどの広さである。
足守川の堰止めには河口の船を廻送させ、石積みして沈める堅固な水留にした。折から雨季、高松城は満々たる湖上に浮かぶ城塞になった。
このときの城内の有様はいかがなものであったか、大いなる興味があるのだが、如何せんそれを寴うような記述の資料をもちあわせていない。
想像だにしなかった奇抜な秀吉方の行動に驚天動地した毛利輝元は弟にあたる毛利の両川とうたわれる吉川元春、小早川隆景などに急遽出陣を命じ4万の軍勢で高松城を囲んだ。秀吉軍の背後、主として吉備平野の南側を拠に陣構えした。
この毛利出陣はどうみても遅きに逸する。築堤途上への襲撃ならば混乱に乗じた駆け引きができる。築堤が完工すれば、秀吉側は腰をおちつけた采配が可能になる。
高松城北には龍王山の山塊があって秀吉が本陣を布き(のち石井山に本陣を移す)両翼に加藤清正、宇喜多忠家、羽柴秀勝、仙石権兵衛、堀尾茂助、羽柴秀長、黒田官兵衛などの歴戦の軍勢を円形に貼り付け指呼の隙間さえみせなかった。ただ南正面の堤防沿いに山内一豊、花房助兵衛の二将のみがポツンと駐陣している箇所が手薄といえば手薄で、毛利の猛将吉川元春が小早川隆景の支援を恃み、短期決戦でおそいかかれば穴を穿つことはできるかもしれなかった。
目前の山内・花房勢に吉川軍が襲いかかるのが定石、ところがそれを観た秀吉軍の両翼が馳せて東西から包み込んでくるだろうから、両翼を牽制しながら小早川軍が応戦し秀吉本隊が動く前に手足をもぎとり進退の妙を計ればおもわぬ勝機を手中できる可能性はある。
ただし、援軍と局面の采配をする小早川の陣は日差山にあるので些か距離があるし総采配の毛利輝元にいたっては高梁川を越え小田川沿いの猿掛山に陣をはっている。高松城とは32㎞の距離も離れていては、おいそれと援駆けできにくい。伝令の情報も疎になりがちで、これを緩慢な布陣といっては後世の戯言になるが、いささか気を揉むものである。
天正10年6月2日、信長は京都本能寺にて明智光秀に討たれた。いわく本能寺の変である。
信長の茶道相手である長谷川宗仁の放った使者が秀吉陣営にとびこんできた。かたや毛利にも伝令がはしったが秀吉の敷いた網にひかかってこの特報は知るよしもなかった。
備中、美作、伯耆の3カ国与奪と高松城主清水宗治の切腹を条件にしての和睦は、どちらに利があり勢いがあったかは自明の理、信長の死を極秘にしてもなお弱みを見せず有利に処したのは強靭な戦術である。
一刻も早く信長命の仇討ちに京へとってかえしたい秀吉は和睦を確認した早々、堤の一角をはなって馬首を東にかえし退却にかかった。そのとき、秀吉のはやる心の背に追撃をかければ毛利の戦力は倍加した筈だが、追撃主張する吉川元春を諌めた小早川隆景は和睦文書を交わした「武士の義」をたてに毛利軍の鋒をおさめさせた。広辞林を開いてみると「義」とは「人をして守るべき正しい道」となっていて、武士の世界にこのような論語がしみついたのは江戸時代の幕閣統制のなせるわざであって、戦国末期にはその比重はあってもわずかだ。小早川隆景がこれを説いたのは清廉愚直とでもいいたいが、この人はもう少し後世に生まれるべき人だった。
いずれにせよ、最大で最後の覇道への機を、毛利は逸した。関ヶ原の戦いでも股を裂くような行動をとり、禄高を大きく減じ日本海の僻地に封じこめられ、長い雌伏に耐えかねて日本の舞台に爆発するのは、明治維新まで待つしかない。
備中高松城の攻防において毛利の「なぜ」の疑問を未消化のまま追ってみたが、これはもう家祖・毛利元就の遺言が身骨に沁みた呪縛であって「永代」のトラウマだった気がする。
毛利側の動勢はというと、天正10年3月15日に秀吉が2万の軍勢で中国制覇にのりだしたとき、あるいはその以前の信長が秀吉に指令を発した段階で意を通じた大阪京都の商人が放った早飛脚により情報を手中したと思うのに、迎撃体制にふにおちない一局面の手当てだけで済ましているのだ。いわく、小早川軍の一武将・末近信賀の隊を援軍に送り込んだのだが、応援隊をそのまま高松城内に採りいれ、城内の総勢5500人の規模に膨らましのは、外郭干戈戦を捨て沼地を最大限自負しての、はなから籠城作戦をとったのがうかがえる。
寄せ手秀吉の陣構えからみて正攻法の仕掛けは不可能とみて長期戦をえらんだのだろうが、一見籠城側が有利と踏んだのはあくまでも地の利、溢れんばかりの兵数をかかえての籠城は長期になればなるほど食料枯渇の弱点をろていする。かててくわえて大軍をまえにしてとても勝てないと判断したら城兵の士気は著しく萎える。たとえば秀吉が鳥取城を水攻めして兵糧を断ったときの城方は惨憺たる叫喚におちいりあげくに陥落している。状況を把握した毛利輝元は清水宗治あてに、支援できないから「降伏」をうながしたのであるが、宗治は拒絶した。
足守川の堤防を築く前に、なぜ毛利軍は一部隊ではなく大軍を派遣して迎撃しなかったのか。もろもろの要素が介在していていたようだが、腰のひけた軍略はのちのちの展開に後手を及ぼした。
水攻めは奇略である。発案は黒田官兵衛、長さ約4㎞、高さ8m、底部24m、上幅12mの堤防施工の旗振り奉行には蜂須賀正勝が任命され、実際の工事は秀吉幕下、宇喜多衆、但馬衆が区画分担して完成させた。近隣の住民に土俵一俵に銭100文、または米一升で買い上げ、築堤の人夫には高賃金での土工作業を督励した。上幅12mなどは軍馬がゆるゆる闊歩できるほどの広さである。
足守川の堰止めには河口の船を廻送させ、石積みして沈める堅固な水留にした。折から雨季、高松城は満々たる湖上に浮かぶ城塞になった。
このときの城内の有様はいかがなものであったか、大いなる興味があるのだが、如何せんそれを寴うような記述の資料をもちあわせていない。
想像だにしなかった奇抜な秀吉方の行動に驚天動地した毛利輝元は弟にあたる毛利の両川とうたわれる吉川元春、小早川隆景などに急遽出陣を命じ4万の軍勢で高松城を囲んだ。秀吉軍の背後、主として吉備平野の南側を拠に陣構えした。
この毛利出陣はどうみても遅きに逸する。築堤途上への襲撃ならば混乱に乗じた駆け引きができる。築堤が完工すれば、秀吉側は腰をおちつけた采配が可能になる。
高松城北には龍王山の山塊があって秀吉が本陣を布き(のち石井山に本陣を移す)両翼に加藤清正、宇喜多忠家、羽柴秀勝、仙石権兵衛、堀尾茂助、羽柴秀長、黒田官兵衛などの歴戦の軍勢を円形に貼り付け指呼の隙間さえみせなかった。ただ南正面の堤防沿いに山内一豊、花房助兵衛の二将のみがポツンと駐陣している箇所が手薄といえば手薄で、毛利の猛将吉川元春が小早川隆景の支援を恃み、短期決戦でおそいかかれば穴を穿つことはできるかもしれなかった。
目前の山内・花房勢に吉川軍が襲いかかるのが定石、ところがそれを観た秀吉軍の両翼が馳せて東西から包み込んでくるだろうから、両翼を牽制しながら小早川軍が応戦し秀吉本隊が動く前に手足をもぎとり進退の妙を計ればおもわぬ勝機を手中できる可能性はある。
ただし、援軍と局面の采配をする小早川の陣は日差山にあるので些か距離があるし総采配の毛利輝元にいたっては高梁川を越え小田川沿いの猿掛山に陣をはっている。高松城とは32㎞の距離も離れていては、おいそれと援駆けできにくい。伝令の情報も疎になりがちで、これを緩慢な布陣といっては後世の戯言になるが、いささか気を揉むものである。
天正10年6月2日、信長は京都本能寺にて明智光秀に討たれた。いわく本能寺の変である。
信長の茶道相手である長谷川宗仁の放った使者が秀吉陣営にとびこんできた。かたや毛利にも伝令がはしったが秀吉の敷いた網にひかかってこの特報は知るよしもなかった。
備中、美作、伯耆の3カ国与奪と高松城主清水宗治の切腹を条件にしての和睦は、どちらに利があり勢いがあったかは自明の理、信長の死を極秘にしてもなお弱みを見せず有利に処したのは強靭な戦術である。
一刻も早く信長命の仇討ちに京へとってかえしたい秀吉は和睦を確認した早々、堤の一角をはなって馬首を東にかえし退却にかかった。そのとき、秀吉のはやる心の背に追撃をかければ毛利の戦力は倍加した筈だが、追撃主張する吉川元春を諌めた小早川隆景は和睦文書を交わした「武士の義」をたてに毛利軍の鋒をおさめさせた。広辞林を開いてみると「義」とは「人をして守るべき正しい道」となっていて、武士の世界にこのような論語がしみついたのは江戸時代の幕閣統制のなせるわざであって、戦国末期にはその比重はあってもわずかだ。小早川隆景がこれを説いたのは清廉愚直とでもいいたいが、この人はもう少し後世に生まれるべき人だった。
いずれにせよ、最大で最後の覇道への機を、毛利は逸した。関ヶ原の戦いでも股を裂くような行動をとり、禄高を大きく減じ日本海の僻地に封じこめられ、長い雌伏に耐えかねて日本の舞台に爆発するのは、明治維新まで待つしかない。
備中高松城の攻防において毛利の「なぜ」の疑問を未消化のまま追ってみたが、これはもう家祖・毛利元就の遺言が身骨に沁みた呪縛であって「永代」のトラウマだった気がする。
コメント