吉備路のいろどり4ー備中高松城址4
2016年3月10日 連載
対峙・兵どもが夢のあと4
備中の地は毛利氏の領土からすれば最東端にあたり、隣地は備前・宇喜多直家の支配地になる。[中央に出るな中国にとどまれ]という元就遺訓によって覇権拡大はなきにしても、中国地方の境界になる備前岡山まではせめてわがものにしたいという戦略心はあっただろう。事実、播磨備中にかけて権力をふるった守護・赤松の衰退時期は北から次男吉川元春勢、山陽がわから三男小早川隆景勢がいくどなく戦馬を乗り入れ攻略をかけている。史実をみると、そのときの情勢は宇喜多氏が味方にあったときに符号するのが、大国毛利の弱点をあらわしている。点と線では相互の思惑が交差した時の泡沫のような点だけの同盟で蜘蛛の糸の繋がりにすぎない危うさが、境界を越えるときには付きまとう。
よって、毛利勢が東進しようとしても宇喜多氏が瘤になっているので安易に軍馬を進めることができない、この宇喜多直家は守護代浦上氏の家老職にありながら下剋上を平左でやってのけるほどだから時勢に応じて離れては従い欺いたり、そのつど離合集散をくりかえすものだから、一夜に寝返られていつ寝首をかかれるかわからない不気味さを内包しているから徒に戦矛をふりあげることもかなわず、さりとて迂闊に手を握ることも危ない厄介な存在であったが、秀吉進駐このときはさすがの直家も末期の病頭に秀吉を迎え加担を約し、後継の秀家の後事安穏を願ったとつたえられる。
ここで宇喜多勢1万は織田勢2万にくみこまれ備中へおしだした。
一方、毛利氏の備中七城が攻防前線の基地で、備中高松城 宮路山城 冠山城 加茂城 日幡城 撫川城 松島城、その旗頭が備中高松城で主将が備中高松城の清水宗治である。
そして毛利総勢4万が対峙する。
侵攻途上の七城小城は巨獣が蟻を踏みつぶすように秀吉軍は攻略して除け、沼地のなかの主力高松城を囲んだのだが、人馬ものみこむ沼地に攻めあぐね、戦巧者の秀吉は陣をはったもののいたずらに揉むことにならなかった。
備中の地は毛利氏の領土からすれば最東端にあたり、隣地は備前・宇喜多直家の支配地になる。[中央に出るな中国にとどまれ]という元就遺訓によって覇権拡大はなきにしても、中国地方の境界になる備前岡山まではせめてわがものにしたいという戦略心はあっただろう。事実、播磨備中にかけて権力をふるった守護・赤松の衰退時期は北から次男吉川元春勢、山陽がわから三男小早川隆景勢がいくどなく戦馬を乗り入れ攻略をかけている。史実をみると、そのときの情勢は宇喜多氏が味方にあったときに符号するのが、大国毛利の弱点をあらわしている。点と線では相互の思惑が交差した時の泡沫のような点だけの同盟で蜘蛛の糸の繋がりにすぎない危うさが、境界を越えるときには付きまとう。
よって、毛利勢が東進しようとしても宇喜多氏が瘤になっているので安易に軍馬を進めることができない、この宇喜多直家は守護代浦上氏の家老職にありながら下剋上を平左でやってのけるほどだから時勢に応じて離れては従い欺いたり、そのつど離合集散をくりかえすものだから、一夜に寝返られていつ寝首をかかれるかわからない不気味さを内包しているから徒に戦矛をふりあげることもかなわず、さりとて迂闊に手を握ることも危ない厄介な存在であったが、秀吉進駐このときはさすがの直家も末期の病頭に秀吉を迎え加担を約し、後継の秀家の後事安穏を願ったとつたえられる。
ここで宇喜多勢1万は織田勢2万にくみこまれ備中へおしだした。
一方、毛利氏の備中七城が攻防前線の基地で、備中高松城 宮路山城 冠山城 加茂城 日幡城 撫川城 松島城、その旗頭が備中高松城で主将が備中高松城の清水宗治である。
そして毛利総勢4万が対峙する。
侵攻途上の七城小城は巨獣が蟻を踏みつぶすように秀吉軍は攻略して除け、沼地のなかの主力高松城を囲んだのだが、人馬ものみこむ沼地に攻めあぐね、戦巧者の秀吉は陣をはったもののいたずらに揉むことにならなかった。
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